(田丸 昇:棋士)
高みを目指す「同志」から「対抗」に
大山と升田は、同じ門下の兄弟弟子。師匠宅で内弟子をしていた若い頃は、同じ釜の飯を食い、切磋琢磨したものだ。兄弟子の升田が大山の囲碁を横から見ている姿は、内弟子時代に戻ったような和やかな雰囲気がある。
大山と升田は戦後の1940年代後半から、頭角を現していった。ともに高みを目指す「同志」の間柄だった。しかし、両者が盤上で激しい勝負を繰り広げていくと、いつしか盤外でも対抗するようになり、いろいろな葛藤が生じた。
大山が毎日新聞社、升田が朝日新聞社の「嘱託」に就いたことで、後援者や知人の顔ぶれもはっきり分かれた。
昔は、大新聞社が有力棋士を取り込むために、嘱託として迎えたものだ。ちなみに読売新聞社の嘱託には、主催した九段戦(竜王戦の前々身棋戦)で4連覇した塚田正夫実力制第二代名人(享年63)が就いた。
大山と升田の関係は、将棋連盟と名人戦主催者の間で起きた契約金問題によって、さらに溝が深まった。
戦前の1935年に創設された名人戦は、毎日が当初から主催していた。しかし、1949年に将棋連盟との契約金交渉で折り合いがつかず、契約は不成立になってしまった。
そして同年、連盟の希望額を受け入れた朝日に、名人戦の主催権が移った。噂によると、朝日の嘱託の升田が暗躍したという。
そうした経緯があったので、大山と升田がタイトル戦で対局したときは、周囲の関係者は神経をピリピリさせた。それは両者の盤外の行いにも及んだ。
控室で升田は「囲碁」、大山は「麻雀」
病気がちの升田は寒がりだった。ストーブを点けてくれと所望すると、関係者は暑がりの大山に配慮して、一部の窓を開けて風を通した。
升田は食が細く、蕎麦に生卵をかけるような流動食をとった。
大山は食欲が旺盛で、天ぷら、ウナギ、ビフテキなどのスタミナ食を好んだ。自分はこれだけ食べられほど元気なんだと、升田に見せつける意図もあったようだ。
2日制のタイトル戦では、対局者は対局前夜、1日目の夜、控室でくつろいだものだ。その過ごし方はさまざまだった。
升田は青年時代から好きだった「囲碁」を打った。「モミジのようなかわいい手だな」「あんたの碁は《クイゴ》(杭のように打てば打つほど力が下がる意味)やな」などと、軽口をたたきながら楽しんだ。
大山は「麻雀」を打った。対局中でも、立会人や記者など自ら4人を指名して控室で打たせ、時たま立ち寄って観戦した。だから麻雀をできない者は大山に疎んじられ、「立会人は麻雀を打てる人にしてほしい」と注文をつけることもあった。
対局中に頭脳を酷使しているのに、休憩時間に囲碁や麻雀で頭を使うのは、不思議な気がするだろう。しかし、スポーツ選手の柔軟体操みたいなもので、よい気分転換になったようだ。
二人が協力し合ったこととは?
大山と升田は、盤上盤外で長年にわたって対立していた。しかし、1974年に協力し合ったことがあった。
事の発端は、当時の将棋連盟理事会が推進していた「将棋会館」建設問題。大山と升田は、資金計画などについて重大な懸念を抱いていて、手を結ぶことで合意した。そして、有力棋士たちを巻き込み、棋士総会の場で理事会に総辞職を迫った。
大山と升田の両巨頭に膝詰め談判されては、もはや受けはない。理事会は総辞職し、新理事会の要職に大山が就いた。升田は相談役として閣外協力した。
大山と升田が過去の経緯を捨てて協調したのは、将棋連盟という運命共同体の会員同士ということにほかならないが、兄弟弟子の絆が根底にやはりあったと思う。
なお、1976年に大山らの新理事会によって、現在の将棋会館が建設された。
明るいイメージがあった中原と米長
昭和から平成の時代の名ライバルは、中原誠十六世名人(73)と米長邦雄永世棋聖(享年69)だった。
中原名人(写真右)に米長八段が挑戦した1976年の名人戦は、3勝3敗で迎えた最終局で中原が勝ち、名人位を死守した。
中原は「全体に押され気味で、苦しい防衛戦でした。結局、勝運があったんです」と、感想を語った。
米長は「悔いが残らぬと言ったら、ウソになります。しかし、私なりに全力を尽くしました。今夜は中原さんの祝杯に軽く付き合ってから、家に帰ります」と、敗者の弁を率直に語った。
勝っても控えめな中原。負けても爽やかな米長。
両者はもともと仲が良かったとはいえ、米長の最後の言葉に、将棋ファンは好印象を抱いた。
大山・升田の時代の勝負とは異なる、明るいイメージがあった。
「カミさんよりも、一緒にいる時間が多い」
中原と米長のタイトル戦の勝負では、前掲の写真のように、中原が勝利者として脚光を浴びるのが常だった。
芝居にたとえると、主役の中原の名演技を、米長が名脇役として引き立てていた。
実際に米長は、中原とのタイトル戦で7期連続で敗退していた。
米長が1979年の王位戦で、中原を4勝3敗で初めて破ってタイトルを獲得したとき、米長の師匠の佐瀬勇次八段(当時60)は、「まさに《七転び八起き》の勝利だ。苦しみ抜いたから《七転八倒》かな」と、喜びを語った。
1978年10月から1981年3月までの2年半。米長は名人戦、十段戦(竜王戦の前身棋戦)、王位戦・棋聖戦・棋王戦のタイトル戦で、中原と合わせて9シリーズも対戦した。総対局数は48局(そのうち2日制は36局)。
地方の対局場との往復の移動日を含めると、米長は中原と毎週のように顔を合わせたことになる。
米長は「カミさんよりも、中原さんと一緒にいる時間の方が多い」と苦笑したものだ。
米長が中原に勝てるようになったのは?
タイトル戦の地方の対局場には、対局者・立会人・記録係・主催者の記者など、一緒に移動するのが原則である。
しかし、米長はある時期から事前に許可を得て、往復ともに単独行動を取るようになった。
「風のごとく来たり、風のように去る」という神出鬼没の作戦である。
米長はもともと自由人だった。中原といつも一緒にいては、戦意がにぶると考えたのかもしれない。
米長は対局場に早く着くと、中原らの一行に「よくいらっしゃいました」と宿の番頭のように出迎えた。対局中のおやつについては、「当地はこのお菓子がおいしいそうです」と、事前に知った話を伝えた。
その後、米長の自由な行動が功を奏したのか、タイトル戦で中原と互角に渡り合えるようになった。
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