
「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、それまでは、それぞれが自分たちの暮らす狭い地域を世界だと思っていた、などと言う始末。しかし、文明論から眺めれば、ちまい領邦が国境でやりあうのは、むしろ近世だけのこと。それ以前、世界に国境は無く、人々は大胆に大陸を横断し、交流していた。
地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。とはいえ、このあたり、文字が無く、史料も少なく、謎だらけ。地道な現地調査の成果を待つばかり。しかし、仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。
地球儀的思考
ヨーロッパだの、アジアだの、百年も前の帝国主義時代の、大陸の両端の低緯度を中心とした二つの地図で考えているから、世界が見えない。世界は、中世モンゴル大帝国の崩壊まで、高緯度のユーラシアハイウェイを中心に動いてきた。地球儀で言えば、それが大陸の両端をつなぐ最短距離だからだ。
とはいえ、ユーラシア大陸なんて、そもそもみな土地勘が無いのではないか。数十年前まで、そのほとんどが共産主義の鉄のカーテンの向こう側。地政学的にも、最重要地域で、軍事機密。そして、歴史の積み重ねと東西の鬩ぎ合いで、とめどない民族紛争と軍事介入。おまけに、その中心は、じつはウラン鉱石の大産地で、かなりやばい。
そもそもユーラシアなんていう名前からして、ヨーロッパ+アジアの合成語。ヨーロッパ人の感覚では、ウラル山脈までがヨーロッパ、その東がアジアらしいが、地政学的には、スレイマン山脈・パミール山地・天山山脈・アルタイ山脈・東シベリア山脈という大きな壁がある。この「ユーラシアの壁」の西がヨーロッパ世界、東がアジア世界。
かつてすべての大陸は一つだった、という百年前のパンガイア理論では、二つに割れたパンガイア大陸の南半ゴンドワナ大陸がばらけて、その一部、インド半島が5000万年前に北半ローラシア大陸に食い込み、ヒマラヤ山脈を作った、というのは有名だが、北半ローラシア大陸からして、ウラル山脈以東と以西が合わさってできたもので、それもこのユーラシアの壁まで。中国や東南アジアは、南半ゴンドワナ大陸のごちゃごちゃと裂けた断片が北半ローラシア大陸に寄ってきて、それを大きなインド半島がぐっと押しつけてくっついた、ということになっている。
いずれにせよ、ヨーロッパ世界とアジア世界を分けるユーラシアの壁を越えられるところは、「草原の道(ステップロード)」しかない。だが、それこそがアジアとヨーロッパを最短距離で結ぶユーラシアハイウェイだ。
自然地理学的な前提
地質学的にどうあれ、地理的には、このユーラシアの壁を挟んで、両側は、中央アジアと西域・モンゴルは、双子の乾燥地帯になっている。南に標高600メートルのイラン高原・ヒンデュークシュ高原やチベット高原を控えながら、カスピ海の標高はマイナス40メートル、タクラマカン砂漠に至ってはマイナス130メートル。とんでもない高低差がある。
おまけに地球の自転で赤道付近に東から西への貿易風が吹くせいで、この中緯度地域は偏西風が吹く。つまり、高原で雪や雨を搾り取られた風がフェーン現象の熱波となって、この低地に襲いかかる。それも、この偏西風は、太平洋の海流しだいで、しばしば大きく蛇行して、とんでもない熱波がこのあたりにずっと居すわることもある。かような事情で、この二つの地域、中央アジアと西域・モンゴルは、大半が砂漠。せいぜい草原(ステップ)。そのくせ、偏西風の蛇行によっては、激しい寒波に襲われ、マイナス20度以下になり、砂漠に雪が降ることも。
もうすこし細かく見ていこう。中央アジアは、東のパミール山地から巨大なカスピ海へ傾斜している。このために、山の麓には扇状地が広がり、砂漠の中にもアラル海などの塩水湖があって、東から西へ南のアム(オクソス)河と北のシル(ヤクサルテース)河が流れている。これらの河を挟んで、南から、カラクム(黒砂)砂漠、キジルクム(赤砂)砂漠、そして、広大なカザフステップがある。しかし、カスピ海東岸のトゥラン低地は地形的に不安定で、これらの湖や河はしばしば大きく移動してしまう。アム河も古代ではカスピ海に注いでおり、いまアム河が流れ込んでいるアラル海はもはや消えようとしている。
一方、西域・モンゴルは、西南から東北へ延び、その中ほどを西の天山山脈と東の陰山山脈で挟まれ、西南がタクラマカン砂漠、東北がゴビ砂漠。そして、北にモンゴル高原が控えている。また、天山山脈や陰山山脈の南側には、いくつもの小さな扇状地がある。また、黄河は、大きく陰山山脈まで北上し、崑崙山脈東端の河西走廊へ南下するので、このループの中は、オルドス草原になっている。
人文地理学的な理解
とにかく水が無い。だから、人が暮らせるのは、山際の扇状地か、さまよう湖や河のほとりだけ。しかし、石器時代、これらのオアシスに人が住み着いた。彼らは、当初は原始的な農業と牧畜を営んでいたが、やがて村の農地を拡大するために、牧畜はオアシス村の外の草原に頼るようになる。
遊牧民(ノマド)という呼び名は、誤解の元。彼らの生活形態は、あくまでいずれかの地方の定住者。ただ、問題は、水のある湖や河がしばしば大きく移動してしまうこと。そのために、彼らは村と農地を移動させることがある。くわえて、このあたり、夏と冬で寒暖が違いすぎる。このため、農業も外牧も、夏は暑さを避けて山の高原、冬は寒さを避けて麓の山裾に。ただし、夏営地と冬営地は、それぞれの一家で決まっており、あちこちに移動するわけではない。
また、この地帯、東西交易がさかんで、水に余裕のある大きな扇状地にはオアシス都市ができ、その周辺の農業開発も大規模に進む。このため、都市の大商人などは、自分の牧畜をその外の遠い草原まで連れて行く余裕がなくなり、これを、どのみち自分たちの牧畜を外牧する周辺のオアシス村に委託するようになる。
やがてオアシス村の中には、中心オアシス都市の外牧受託専従になって、農業などはオアシス都市やその交易に依存するものも出てくる。また、オアシス村も、肉や革、毛織物などの商品をオアシス都市に出し、さらには、都市間の交易輸送、その武装警備などの役務を引き受けるようになる。
彼らは輸送にもっぱらラクダを使った。乾燥圏に適したフタコブラクダは、偶蹄と肉球で砂をつかんで、二百キロもの荷物を積んで、一日に百キロも歩ける。前のコブを足で挟めば人が乗れないことはないが、もともと右前後足、左前後足と、左右交互に出す側対歩であるために、これが走ると、脚力ではなく、両後足をハの字に開いて背筋と腹筋で砂を蹴って飛ぶような形になり、頭から背中まで龍のようにうねって、人を跳ね飛ばしてしまう。(伝説の麒麟の元か。)そもそも、ラクダは、どこに進むかわからない。だから、ラクダの鼻輪を前のラクダの尻尾とつなぎ、トレインにして、その先頭のラクダの鼻輪を徒歩で引いていく必要がある。
かくして、個々のオアシス都市に、それぞれの周辺のオアシス村が数多くぶら下がる社会形態となった。これらのオアシス村は、同じオアシス都市の外牧や輸送の役務受託において、たがいに商売がたきであり、同じ地域にあっても、部族として仲がいいわけではない。つまり、民族としての統一性など、一時的な防衛連合でもないかぎり、成り立たない。
その一方、客人は歓待し保護した。それは、客人が公益上の利得をもたらすからというだけでなく、その背後にどれだけの勢力が控えているかわからないからでもある。あしざまにあしらうと、その報復は自分たちを滅ぼしかねない。また、オアシス都市でも、彼らは文字を持たなかった。これは文化的に遅れていたからではなく、つねに多言語で、文字にする以上に変化が早く、また、へた文章を残すと、継承者が不定で危険だったからだろう。だから、彼らはつねに一期一会の現物決済で、情勢が変われば、かんたんに約束も変わる。
そもそも、○○人、という呼び方からして、人種や民族の問題ではない。それは、ある時代のある地域での生活形態にすぎない。いわばアメリカ人が多様な出身の人種を含んでいながら、アメリカ人らしい生活と気質を持っているようなもの。おまけに、彼らは、地域内部族間の対立で離散しやすく、また、どこでも周辺民と血統や文化を吸収混交していく。このせいで、彼らは、場所を遷ると生活形態も変わってしまい、名前も別のものになってしまう。
大水害と二つのプロト民族
しかし、このあたり、最初から砂漠だったわけもない。かつてはパミール山地やチベット高原からの豊かな雪解け水で、大きな湖の周囲に緑の野原、それどころか鬱蒼とした森が広がっていただろう。だが、伝説だと、前5600年ころ、北極海の氷河が融け、西シベリア低地や地中海・黒海からとてつもない量の海水が流れ込み、天山山脈とコーカス山脈だけを残して、この一帯すべてを水没させた。(それが、ノアの大洪水などの話のもとになった、とか。いまでもカスピ海は、北極海の記憶として、海水魚のニシンが泳ぎ、これをアザラシが食べている。)
時期はともかく、中央アジアや西域・モンゴルは、かつて巨大な内陸海になってしまったことがある。これがまずいのは、ただでさえ山(かつては海底)から岩塩が流れ出しているのに、内陸海が乾燥で干上がると、塩分濃縮によって植物が全滅し、土壌細菌さえも生きられず、死の砂漠になっていってしまうから。このあたりで素朴な農耕牧畜を営んで人々のほとんどがこの大水害で死滅し、生き残っても干魃と飢饉に襲われ、わずかに天山山脈やコーカサス山脈のあたりに移り逃げた人々だけが助かった。
この逃げた場所によって、その後の言語系統も大きく二つに分かれたようだ。天山山脈に逃げた人々は、プロトテュルク語で、膠着語(接尾格)でSOV文型。一方、コーカサス山脈に逃げた人々は、プロト印欧語(PIE)で、屈折語(格変化)でSVO文型。いずれにせよ、四大文明より前、前3600年ころからパミール山地西側・天山山脈北側、すなわちシル河源流、現キルギス、河西走廊の山麓扇状地、および、南ロシア平原、すなわち、現ポーランドから黒海北、ウラル山脈までの広大な地帯に、新たな人々が広がっていった。
プロトテュルク族は、いち早く文明化し、商業化した。彼らは、それぞれの山麓扇状地に、周辺のオアシス村の外牧民とともに大規模なオアシス都市文明を築き、周辺に農地を拡げるとともに、中国から中央アジアに至る交易路をつないでいく。牧畜の羊は、彼らにとって主要タンパク源であり、また、寒暖差の激しい高山山麓にあって必需品の毛皮や毛織物の元で、財産そのものだった。また、彼らは、輸送にはもっぱらラクダを使い、羊やラクダは都市大商人は、その飼育や運用を周辺の外牧民に委託した。
一方、南ロシア平原のプロト印欧語族ヤムナヤ人は、原始的なままだった。野営ながらも定住して村をなし、農業や牧畜、狩猟を営んでいた。家畜としては肉食用の牛や羊、ヤギが主で、鋤や車を持ち、農耕や運搬に牛や馬を使っている。しかし、馬はまだ、乗れてもロバ乗り(胴輪を掴んで骨盤に乗る)で、単独での騎乗疾駆はできない。また、彼らはすでにウラル山脈で採れる銅を知ってはいたが、柔らかすぎたため、ふだんは石器や木材、動物の骨や角、牙を使っていた。
青銅器の文明変革
きらびやかな金や銀は、早くから装飾用に用いられていた。しかし、柔らかすぎて、金属器としての用をなさない。銅は、金銀の5倍の硬さがあるが、それでもかんたんに曲がる。鉄はどこにでもあって銅の1.5倍以上も固いが、当時はまだ1500度に達する炉が無く、溶かすことができなかった。
しかし、前3000年ころから、エジプト、ついでメソポタミア、そして中国で、青銅が発明される。これは、銅の錫(スズ)との合金で、銅や錫が柔らかいのに、これらを溶かし合わせた青銅は、鉄並みに固く、石よりも加工しやすい。融解も銅の1000度でいける。それゆえ、青銅は、武器の素材となり、四大文明圏での王権の支配を劇的に拡大し、高度な文明を発展させていく。(ただし、青銅武器は貴重なので、王の独占。一般兵卒はあいかわらず木製の弓矢と棍棒。)
かくして、錫は、文明の興廃を握る最重要戦略物資となった。とはいえ、錫は、金以上に希少だった。というのも、錫は、新期造山帯、つまりユーラシア大陸の接合部分にしか無いからだ。エジプトやメソポタミアは、アナトリア半島北西部ケステル鉱山から錫を得た。中国の黄河文明は河西走廊の天然化合物を使い、インダス文明は北のパミール山地から調達した。また、天山山脈周辺のテュルク人は、東のアルタイ山脈のものを広く交易で手に入れた。そして、これらの文明では、鉱山を抑え輸送を握ることが生き残りの鍵となった。
しかし、大地が古い黒海北岸のあたりは、錫が無い。それで、前2400年ころ、ヤムナヤ人の一部は、プロト・ギリシア人として、セルビア山中で錫が採れるトラキアに移住。彼らは、ここで作った青銅の武器とともにさらに南下し、ギリシア諸都市を興す。また別の一部は、カスピ海東岸トゥラン低地を抜け、イラン高原東北コッペダーク山脈に沿って東に移動し、テュルク語族を押しのけ、前2000年ころ、アーリア人として、やはり錫が採れるバクトリアに住み着く。
また、前十八世紀、セム語族アッシリア人が、アナトリアの錫を、トレインにしたロバに乗せ、小石だらけのシリア平原をバビロニアまで引いていく輸送で台頭。しかし、前1680年ころ、ここにもヤムナヤ人の一部が黒海東岸を南下してきて、アナトリアからアッシリア人を追放し、錫鉱山の利権を奪って、ハットゥシャ(ヒッタイト)人として建国。
ところが、その後、東のテュルク側からもフルリ人がイラン高原に侵入し、シリア北半にミタンニ王国を作って南のエジプトと同盟、北の印欧語族ハットゥシャや、エジプトとの間のシリア南半のセム語族アッシリアと対抗。しかし、ハットゥシャは、その隙間をぬって東南のメソポタミア方面に拡大し、前1595年、古バビロニア王国を滅ぼしてしまう。
同じ前1600年ころ、中国でも、まだ石器を使っていた夏朝(現洛陽市)を、青銅器を得た南の殷(現武漢市)が滅ぼす。敗れた夏朝残党は、黄河沿いに上流へ逃げ、モンゴル高原の南、陰山山脈山麓の鹿城(現包頭市)を拠点に、テュルク語族が支配するユーラシアハイウェイの中国側窓口となって、勢力を残存させ、後に匈奴となる。
このころ、中央アジアでも、バクトリアの錫で青銅の武器を得た印欧語族アーリア人が、前1500年ころ、ヒンデュークシュ高原カイバル峠を越えて、インダス河流域へ侵入。しかし、なんらかの理由で、当時すでにインダス文明は衰退してしまっていた。このため、侵入アーリア人の一部は、西のシスタン盆地に戻り、また、一部は、さらに東のガンジス河流域へ進み、バラモンとして原住民を支配するカースト制の諸国を開く。
鉄器時代の到来
前1400年ころ、ハットゥシャ新王国が鋼鉄を発明。鉄は、銅や錫とちがって、どこにでもあるが、ふつうには5%もの炭素を含み、高温でようやく溶かせても、脆い鋳鉄にしかならない。ハットゥシャは、銅鉱石の精錬で、そのケイ素を抜くのに鉄を使っており、偶然に炭素1%以下の柔軟で強靭な鋼鉄を作ってしまったのだろう。
その後、地元の石炭を使って鉄から炭素を抜く方法を考案するが、これには、ふつう1000度で燃焼する石炭を、鋳鉄の溶解温度1300度まで上げる必要がある。そこで、彼らは山脈上に炉を作り、エテジアンと呼ばれる東北からの強く乾いた夏の季節風が吹き込むようにして、高温を得る工夫をした。この技法は、門外不出もなにも、中央アジアから地中海へ吹き抜ける季節風を遮る半島のアナトリア高原だからこそ可能だった。
ハットゥシャ新王国は、この鋼鉄によって、青銅器よりも強靭な武器と、馬の疾駆にも耐えられる戦車を作った。ただし、この戦車は、二輪で、馬につなぐ轅(ながえ)棒は中央に一本のみ。その左右に馬を二頭立てでつなぐ。というのも、当時、馬はまだ胴首輪のみであり、手綱で左右それぞれの馬の速度を制御することによってしか曲がれなかったから。
それでも、鉄製武器とともに、鋼鉄で補強された戦車は、小石だらけのシリア平原で、圧倒的な力を発揮した。ハットゥシャ新王国は、前1330年ころにはミタンニ王国を征服、さらに前1274年ころには、2500両の戦車で、その背後にいるエジプトを地中海東岸カデシュの戦いで撃破。だが、エジプトは、レバノン北部の森の遊牧民アムル王国や、イタリア・ギリシアから来た海の遊牧民「海の民」を傭兵として反撃。戦況は膠着し、平和条約が結ばれた。
ところが、この後、「海の民」は、前1230年ころ、ギリシアのミケーネ文明を崩壊させ、その残党を吸収して地中海東岸への上陸侵入襲撃も激しくなり、ついには前1190年ころ、ハットゥシャ新王国を滅ぼしてしまう。さらにエジプトを攻撃して、これを地中海東岸から退け、前1080年ころ、東岸パレスティナにペリシテ人として住み着き、現地のイスラエル人を奴隷にしていく。これにイスラエル王国初代サウルが戦うも破れ、前995年ころ、ダビデ王が立って対抗。
これと前後して、足踏み紐引上げを左右交互に行う革張双壺フイゴが発明され、自然の季節風に頼らなくても、小型の高温炉で鋼鉄がどこでもつねにかんたんに作れるようになり、世界は鉄器時代を迎える。また、インダス文明の衰滅でインド洋貿易ができなくなった紅海のセム語系フェニキア人が、混乱する地中海東岸に入り込み、各種の残存勢力を取り込みつつ、イベリア半島まで地中海全域に及ぶネットワークを張り巡らし、海運貿易商人として活躍するようになった。
中央アジアと天山山脈の諸民族
ヘロドトスの『歴史』によれば、前十世紀以前、中央アジアには、諸民族がいた。西から、キンメリア、スキティア、マッサゲティア、アルギッピア、イッセドネス、アリマスピア、グリフォンの地、ヒュペルボレウス。その比定地には諸説あるが、これがユーラシアハイウェイに沿っているとすると、次のようになる。
まず、キンメリア人は、ウラル山脈・ヴォルガ河の東、カスピ海北岸。スキティア人は、カスピ海東岸のトゥラン低地からカラクム砂漠(現トルクメニスタン)にかけて。そして、マッサゲティア(残留アーリア人)人は、アム河上流バクトリア。これらは印欧語族で、黒海北岸ヤムナヤ人が青銅器の原料、錫を求めて東に広がったものだろう。
しかし、その先は、テュルク語族。カザフステップのアルギッピア人は、禿頭とされるが、おそらくテュルク語族独特の弁髪で、当時、ソグディアナ(現サマルカンド市など)の交易にも係わるものの、大半は北の豊かな奥地(現ヌルスルタン市のあたりか)で半農外牧を営み、大麻(繊維型)やケシ(アヘン)も作っていた。
イッセドネス(烏孫(イゥッソン)、サカ、塞(さい))人は、中央アジアと中国とをつなぐ谷の要害、現キルギスのイッシク(温)湖付近。ここは、標高1600メートルもの寒冷な高地だが、温泉のおかげで、この谷筋は温暖。(しかし、その後、イッセドネス人はアリマスピア(月氏)に追われ、街も湖底に沈んでしまい、謎となる。)
アリマスピアは、シルクロードの玄関、敦煌市だろう。その名は単眼国という意味だが、強烈な日差と砂嵐に襲われる西域のタクラマカン砂漠を控え、ここの人々が目を守るために一本スリットのサンドゴーグルを使っていたことに由来するのではないか。
この先についてヘロドトスは、リーパイオス山の黄金を守る半鳥半獣のグリフォンのみの無人の地としている。じつは、アルタイ山脈は、黄金の山脈という意味。実際、ここにはボロー金山があり、また、このあたりには猛禽類のような頭を持った恐竜プロケラトプスが8000万年前に生息していて、砂中からその化石も多く出土していたので、これを怪物グリフォンの骨と見まがったのだろう。
そして、最後のヒュペルボレイオス人は、北風の向こう国という意味で、中央シベリア高原、ツングース語族のことだろう。ここは錫をはじめとする鉱山資源の宝庫で、青銅器時代になってから、テュルク語族とのユーラシアハイウェイでの交易が盛んになった。
(2)に続く

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