【東京・浅草発】「ソイヤソイヤ」。もう10年以上前のこと、今回登場の飯島さんに誘われて浅草神社の三社祭りに行った。初夏の三社祭は、浅草の人たちにとって正月以上に思い入れがある。しかし、コロナ禍による緊急事態宣言で2年続けて神輿担ぎが中止された。異例の事態だ。飯島さんは、これまでボランティアとして浅草神社奉賛会事務局次長を務め、三社祭の準備から当日の運営、警察やマスコミ対応をしてきた。着慣れた半纏が江戸っ子の粋な風貌を感じさせる。まさに浅草の顔を持つ飯島さんだが、私は彼がIT資産管理ソフトウェア会社の幹部だった頃からよく知っている。浅草が「世界に誇れる観光のメッカ」となったのは、彼の手によって“浅草とIT”が結びついたからではないか。
(本紙主幹・奥田喜久男)

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●松下幸之助にならって“浅草マーケティング”を展開



奥田 浅草は江戸の風情があっていいところですね。浅草寺の本堂はいつ落慶したのでしたっけ。

飯島 昭和30年3月1日です。雷門は昭和35年5月に松下幸之助の寄進によってですね。

奥田 雷門の大提灯は浅草のシンボルになっていますね。松下幸之助の寄進は、関西に比べて全国ではまだそれほど有名ではなかった松下電器産業による「知名度向上を目指したマーケティング施策」だったことは広く知られています。

飯島 余談ですが、松下電器産業はさらなるマーケティングを展開しているんです。伊勢神宮が 皇學館大学に全国の神社の子弟を集め、神道教育を施して神社に返したことに倣い、全国の電気店の子弟を集めて家電の教育を行ったのち地元に返し、 各地に「ナショナル店会」を結成したのがそれです。

奥田 この「ナショナル・ショップ制度」を展開して全国に営業網を築き上げたことは、直接伝えるしか情報伝達の方法がなかった当時においては、雷門の寄進と併せて画期的なものでした。浅草が、現在のパナソニックの草創期に大きな役割を果たしたわけですね。

飯島 このことを松下幸之助は想像していたのでしょうか?(笑)。 

奥田 松下幸之助のマーケティング戦略もスゴいですが、飯島さんの「浅草マーケティング」も、世界に発信されて、浅草を観光のメッカにしてしまったではないですか。 

 飯島さんはもともと、クオリティソフトに長くおられましたよね。やはり、ITの熟知というのが功を奏したのでしょうか? インターネットの出会いもそこで? 

飯島 クオリティソフトには、関連会社含めて25年間在籍しました。インターネットとの出会いは1992年頃ですね。『オープンディレクトリー』のUNIXツール集などの編集を担当していましたし、『学術ネット』を使って東京大学の学生にUNIXマニュアルの翻訳を依頼するなどもしていましたから。

奥田 今でこそトレンドですが、インターネット黎明期からコミュニティ運営されて、そこで得た情報を商品開発に役立てていたということですか。

飯島 KeyServerという、ライセンス管理の商品をローカライズした後に、KeyServerを売ることになって。95年には自分でHTMLを書いてKeyServerのWEBサイトを作って、名刺情報を入力するとデモ版をダウンロードできるようにしてましたね。その後、商品化したQNDPIusもウェブサイトとメールを活用したマーケティングでIT資産管理ソフトのシェアトップにすることができました。

 2008年からは上海に赴任したのですが、当時、上海における営業活動はまったくうまくいかず、日系企業のトップに接触して、いろいろヒアリングしたのです。すると、売れる手法が分かり、販売を軌道に乗せて2011年に日本へ帰国しました。

奥田 そのへんからマーケティングを意識しておられた。

飯島 そうですね、帰国してからのほうがエンジンがかかりました。『クオリティライフ』が販売していた玄米菜食レストラン『たまな食堂』のマーケティングを任されまして、そこで初めてソーシャルメディアを使った集客にチャレンジしたんです。一般の方々にもレストランを訪れてもらうために、有名ブロガーや、ソーシャルメディアで活躍している人に「健康的で美味しい」と紹介してもらって集客につなげました。今でこそインフルエンサーを使って、宣伝や集客をするのはマーケティングの主流ですが、当時は「インフルエンサー」という言葉が一般的だったかどうか……。

 でも、この手法で同時期にどんどん『浅草』も紹介していきました。


●浅草の広報ボランティアは町内が仲良くなるのを願って



奥田 IT知識とマーケティングの経験を浅草の広報に役立てたのですね。

飯島 上海にいるときから、「日本文化に触れたい」中国人がたくさんいたのに、浅草は十分にその恩恵を受けているとは見えなかった。「コンテンツはいいのに、もったいないな」と思っていました。

奥田 それまでは浅草は広報らしきことをしていなかったのですね。2010年頃の浅草ってどんな感じだったのでしょうか?

飯島 それほど華やかではなく、わざわざ遊びに来る人は多くなかったですし、なにか寂れた感じの街だったのです。催しがあっても、町内にポスターが貼ってあるだけで、外部からはいつ催しが開かれるか知りようもない、そんな状態でした。

 まだ誰もインターネットをよく知らない頃から始めたので、独自の発想で自由にできました。浅草にはいろいろな団体があり、それぞれがイベントを企画していたので、どの会であっても、どのイベントでも、「ウェブサイトに載せます」というと誰も文句は言わないし、「載せてほしい」と喜んでくれました。

奥田 浅草のコンテンツマーケティングをやり始められたわけですね。さて、ウェブサイトは、どこの観光地でも作っていますが、ほかとどう違うのですか?

飯島 ほとんどがきれいなホームページを作っているだけで、更新されていないですね。新しい情報といったら、「フェイスブックであげています」と、その程度です。私はフェイスブック、インスタグラム、ツイッター、ウェブサイト、徐々にユーチューブで、それぞれの特性を踏まえて、毎日「今日の浅草」の情報を発信していました。

奥田 たとえば、フェイスブックはどのように?

飯島 フェイスブックはリアルな対話をするところです。浅草観光連盟のフェイスブックページには、浅草に以前住んでいた方や浅草で働いていたことのある方が多く訪れ「いいね!」やコメントをくださるので、一つひとつ丁寧に返信していきました。フェイスブックページの投稿はページのフォロワーの「いいね!」によってその人の友達のニュースフィードにも流れます。なので、まだフォロワーになっていない方が「いいね!」をつけてくれることも多くあります。そうした人に私はフォローリクエストを送ります。そうやって新たな浅草のファンを獲得していきました。つまり、いくらいいコンテツだって、ばらまかなかったら認知されないのです。

奥田 ソーシャルメディアは一瞬は観られますが、次から次へと流れていって誰も観ないコンテンツになってしまいませんか? すると検索にも引っ掛かりませんよね。

飯島 そうなのです。今どきはウェブページを更新していかないと、どんどんSEO的には下がってしまいます。これが結構大変です。なので、一つフェイスブックにあげた情報であれば、それを自動的にウェブサイトにあがるようにし、そのほかのインスタグラム、ツイッターなどソーシャルメディアにも同時に掲載できる仕組みを開発したんです。

奥田 どの会社で? 

飯島 それは2015年に起業した自分の会社『イ-ウィルジャパン』でです。

奥田 飯島さんはIT技術者ではないですか。この秘密兵器については後編で詳しくお聞きするとして、これによって、コロナ禍であろうと浅草に人がいなかろうと、発信しているのですね。ユーザーとつながっている者にしかわからない、そんな手応えがあるのでしょうね。

 しかし、広報ボランティアっていったって本業をやりながらだから大変ですよね。なぜそこまでして?

飯島 もちろん、弁当代程度しか出ないです。でも、2007年頃に、浅草は三社祭の区分けで三方面に分かれていて、雷門のある方面だけが潤っているように思う人が多く、方面同士の話し合いがうまくできませんでした。仲良く協力すればもっと祭りができ、いい街になるのにと。だから仲良くするためにどうしたらいいかってことを考えました。それには、浅草に二倍三倍の人が来るようにすれば、いがみあいが減って皆が協力し合うのではないかと。

奥田 そこで浅草神社奉賛会や浅草観光連盟に入ってウェブサイトを作って広報し始めたのですね。浅草って、江戸の古い匂いがしていましたが、飯島さんの情報が最先端のインターネットを利用して世界に広がっているのだからむしろリアルで新しい。浅草育ちだからこそ、浅草への思い入れもひとしおでしょう。「浅草の繁栄に貢献したい」といった気持ちが飯島さんを突き動かしているのですね。(つづく)


●手作りのiPhone12 鼻緒付きカバー



 江戸情緒が感じられるiPhone12 鼻緒付きカバーは、革張りのプラスチックのカバーにキリで穴を空けて鼻緒を縛りつけた。話のきっかけを作るカンバセーション・ピースになる。これを持っていると必ず「私も作って欲しいです」と声をかけられるとか。商品はすべてオーダーメイドなので要相談となっている。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第290回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。