(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)

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 来年3月に行われる韓国大統領選の対決構図が変わりつつある。

 今年7月に前検事総長の尹錫悦(ユン・ソクヨル)氏が最大野党「国民の力」に入党して以降は、尹前検事総長と、与党「共に民主党」の最有力候補で「韓国のトランプ」の異名を持つ李在明(イ・ジェミョン)京畿道知事との対決になる可能性が高いと見られてきた。

 世論調査でたびたびトップになる人気を誇ってきた尹錫悦前検事総長は、文在寅政権と対峙することで国民的人気を博してきた。国民の力に入党し、同党の有力な大統領候補となってからはさらに勢いを増していた。これまで政治経験のない尹氏が急速に存在感を増大させることができた大きな理由は、朴槿恵大統領の弾劾以降、野党勢力が総崩れとなり、野党の政治家の中で、有力な大統領候補が見当たらなかったこともある。

 その中で台頭してきた尹前総長を、文在寅政権は敵視し、その追い落としを図ってきた。

最有力・尹錫悦氏の人気にも翳り

 尹錫悦氏にも泣き所があった。妻や義母の不正疑惑が提起されていたことだ。それに加えて今回、尹錫悦氏自身も職権乱用などで告発されてしまった。高位公職者犯罪捜査処(公捜処)は9月9日、尹前総長らを「告発するようそそのかした」被疑者として立件し、翌10日に関係先に強制捜査に入った。ただ、大統領選の野党の有力候補に対し、このタイミングで事件を立件することについて、「政治的動き」と見る向きもある。つまりは謀略だとの見方だ。それでも、尹前総長のイメージダウンは避けられまい。

 加えて、政治経験がないことが裏目に出たと言うべきか、尹錫悦氏は政治的に不用意な発言をすることがあり、反発を受けることもあった。

 このような状況下で、尹前総長の人気に少々翳りも見え始めた。世論調査では与党「共に民主党」の有力候補、李在明京畿道知事とデッドヒートを繰り広げていたが、ここにきて、文在寅政権と共に民主党による「追い落とし作戦」が功を奏してきた、との見方も成り立つ。

 最大野党「国民の力」としては、次期大統領選での勝利の確率を高めるためにも、尹錫悦氏に万一のことがあった場合に備え、これに代わりうる第2の有力な候補の出現を切望していた。

 そうした中、韓国政界保守系の重鎮である洪準杓(ホン・ジュンピョウ)国民の力議員が8月17日大統領選挙出馬を表明した。同氏は前回の大統領選挙でも文在寅氏と争い、2位となった保守系の重鎮である。

 9日発表されたオーマイニュース世論調査会社リアルメーターに依頼した9月第2週の次期大統領候補選支持率調査結果によれば、保守系野党の次期大統領候補として誰が相応しいかを訊ねる質問で、洪準杓氏が前検事総長の尹錫悦氏を誤差の範囲を超えて上回った。

 このことは国民の力に2人目の有力候補が現れたことを意味し、与党・共に民主党(以下“民主党“)は攻撃対象を尹錫悦氏に絞れなくなったことも意味する。

 ただ洪準杓氏には「新しい政治家」のイメージは乏しく、圧倒的な人気を得られるかどうかは疑問の余地もあるが、国民の多くが政権交代を望んでいることから、その受け皿にはなり得る可能性は高い。

 こうした細心の譲許を踏まえ、野党の大統領候補予備選について展望してみたい。

ベテラン洪準杓氏、尹錫悦氏の対抗馬となり得るか

「間違った方向に向かっているこの国を正して正常国家を作り、先進国時代を開く」

 洪準杓氏がこう述べて次期大統領選に出馬を表明したのは8月17日だった。

 この時に同氏は現政権について「無償ポピュリズムがはびこる国になりつつある」と指摘、青年と未来に借金の山を残す「ばらまき大国」になってはならないと、政治の在り方に懸念を表明した。

 同氏は2011年7月にはハンナラ党代表、2017年7月からは約1年間、自由韓国党の代表を務めた。前回の大統領選挙にも出馬し、保守政党に対して朴槿恵氏弾劾に伴う逆風が吹く中で785万票を獲得、文在寅氏の1342万票には遠く及ばなかったが、国民党の安哲秀(アン・チョルス)氏を抑え2位となった。

 現時点で、尹錫悦氏と「国民の力」の大統領候補の立場を争う可能性が高い人物としては、洪氏が最右翼と言えるだろう。

世論調査結果はすでに洪氏の躍進を反映

 オーマイニュース世論調査会社リアルメーターに依頼した9月第2週の野党次期大統領候補予備選支持率調査で、洪準杓氏は8月第4週に比べ12.4ポイント高い32.6%を獲得した。尹前総長の25.8%(前週比2.8ポイント下落)を初めて誤差の範囲を超え上回った。劉承旼(ユ・スンミン)元議員が9.9%であった。

 与野党を合わせた調査では、李在明京畿道知事が27%を記録し首位となり、次いで尹前総長24.2%、洪議員15.6%、李洛淵前民主党代表13.7%であった。2者による仮想対決では、尹前総長vs李知事の場合は39.6%対38.0%で尹氏が優勢、李知事vs洪議員の場合には37.4%対33.4%で李知事優勢であった。

 調査の仕方によって尹氏、洪氏、李氏の結果がばらついており、必ずしも明確な傾向を示すとまでは言えないが、洪議員がマッチレースの中に割り込んできたことは確かであろう。

 リアルメーターでは、こうした結果は尹錫悦前総長に関して最近浮上した、いわゆる「告発教唆」疑惑が影響したと見ている。これによって野党候補では尹前総長の独走態勢から洪議員との2強体制へと構図が変わったと評価している。

 この調査とは別に、9月3~4日に京幾新聞の依頼でRnサーチが行った調査では、洪氏が32.5%対29.1%で尹前総長をリードした。ただしその結果は「誤差の範囲内」とされ、両者の優劣は今後注目していく必要がありそうである。

安定感は十分の洪準杓氏、あとは国民的人気がどこまで伸ばせるか

 出馬にあたって洪氏は、主要な公約として憲法改正を掲げた。これにより現在は「任期5年・重任不可」の大統領について「任期4年・重任制」にし、また国会の比例代表を廃止すること、国会議員の不逮捕特権を廃止することなどを提示した。改憲は「先進国時代にふさわしい政治文化とシステムを作らなければならない」(洪議員)という目的意識からのものだと強調した。

 翻ってみれば、現在の韓国の内政は、文在寅政権と与党によって独裁国家に見られるような法案が次々に国会で可決する状況だ。大統領、国会ともに民主的コントロールが効いているとは言い難い。数々の不正疑惑が取りざたされ、起訴までされている尹美香氏が逮捕されず、堂々と議員活動を続けているような状況も是正すべきである。

 洪議員は、経済システム先進国時代に合わせて変えていかなければならないとしている。「個人と企業を縛り付ける不当な規制を大幅に減らし、市場の自由を拡大する」、「緊急命令を発動しても強硬貴族労組の横暴を防ぎ、労働柔軟性を高める」ことなどを表明している。こうした経済政策が打ち出される背景には、労組寄りの文政権の経済政策が韓国経済の発展を縛っていることがあるのは間違いない。

 国民の最大の関心事となっている不動産市場については「都心の高密度開発、再開発、再建築の活性化、公共部門の『クォーターマンション』(4分の1の価格のマンション)導入で供給を大幅に増やし、住宅価格を安定化させる」とし、都市の関連する税負担の増加でなく、供給増大による価格の安定を指向している。

 外交安保については、日米韓自由主義同盟も強化すると述べ、「米韓間でNATO核共有協定を結び、北朝鮮の脅威に根源的に対処する」、「北朝鮮については、相互不干渉主義、体制競争主義を原則とし、『ドイツ式統一政策』を推進する」と主張した。これらは、文在寅政権の中朝寄り外交からの離脱を意味している。

 洪準杓氏はベテラン政治家であり、文在寅政権の問題点を的確に把握し、政策論争をすることができる政治家である。ただ、仮に洪氏が野党の大統領候補となれば、相手となると予想される李在明知事は、典型的ポピュリストであるだけに、国民受けする公約を現実無視で打ち出してくるであろう。

 洪議員は国民の人気取りに走るポピュリストとは一線を画し、財政政策の「ばら撒き」を批判するなど現実的政策で対抗していくと見られるが、その主張を国民にいかに理解させるか、若者向け、低所得者向けの有効な政策をいかに打ち出していくかがカギとなろう。

野党候補を「狙い撃ち」する公捜処の捜査

 一方で気になるのは、もう一人の野党の有力大統領候補、尹錫悦前検事総長の動向だ。尹前総長は今、捜査機関の対象となっているのだ。

 公捜処は9月10日、国民の力の金雄(キム・ウン)議員に与党系政治家を告発するようそそのかしたとして、孫準晟(ソン・ジュンソン)検事と金議員の事務所や自宅など5カ所を電撃的に家宅捜索した。

 尹前総長に関しては、検察在職当時に孫検事を通じて金雄議員に接触し、与党側の政治家と言論人に対する告発をそそのかした、との疑惑が今月2日にネットメディアで報じられた。さらにそれに関連し、市民団体が尹前総長や孫検事らを告発していた。

 今回の強制捜査着手は、2日にネットメディア上で「告発教唆」疑惑が提起されてから8日目、親与党系団体「司法正義を立て直すための市民行動」による告発を受理してから4日目という異例の早さだった。

 公捜処関係者によれば家宅捜索が実施された9日に尹前検事総長と孫検事を被疑者として立件し、すぐに捜査に着手したのだという。尹前検事総長と孫検事に適用された容疑は職権乱用権利行使妨害・公務上秘密漏洩・個人情報保護法違反・公職選挙法違反の4つだという。さらに2人を立件した理由については「捜査機関が(この事を)はっきりさせよという社説・コラム・記事を見て、強制捜査が必要だというので強制捜査をした」と述べた。

 それにしても、告発とともに本格化した公捜処の捜査の動きは、他の事件処理に比べて異例に速いとの指摘が相次いでいる。まるで政治的な意図があるかのような迅速さだ。

 実際に法曹界からは、「野党の有力な大統領候補を相手に、罪の有無を調べようと家宅捜索したというのはとんでもない理由だ」「公捜処が大統領選挙の局面に介入したも同然だ」との批判が飛び出している。

 検察の一部からも「野党の大統領候補を市民団体からの告発状だけで証拠なく急いで立件した」との批判が出ている。

 もちろん野党は強く反発している。国民の力の李俊錫(イ・ジュンソク)代表と金起鉉(キム・ギヒョン)院内代表らは家宅捜索現場を訪れ、「深刻な野党弾圧だ」と抗議した。公捜処は野党議員の激しい抗議を受け、家宅捜索を11時間で中止したという。

 それだけでは収まらない国民の力は、金議員の事務所を家宅捜索した検事と捜査官羅6人とキム・ジヌク公捜処長に対して職務乱用権利行使妨害罪や不法家宅捜索などで告発すると発表した。

 これに対して、公捜処は「裁判所が発行した令状を適法な手続きに従って執行しようとする捜査チームの行為を多数の力で妨げた」として「令状の再発行を引き続き検討していく」と述べており、国民の力と公捜処の対決が鮮明になってきた。

 もともと、公捜処は文在寅政権が革新政権延命のため、検察とは独自の捜査組織として政治事案を取り扱うために立ち上げたものである。だが、今回の捜査は検察の一部や法曹界から指摘されているように「『親与党系』市民団体の『告発』だけで(明確な証拠もなく)立件」しているのであれば「大統領選挙の局面に介入したも同然」と言わざるを得ない。予想をはるかに超える露骨な政治介入ぶりである。

 尹前総長も、公捜処の立件・捜査の目的が自身の支持率低下を狙ったものだと睨んでおり、今回の立件に猛然と反発している。

 孫検事や金議員の関係先への家宅捜索については、「(疑惑を立証するだけの)資料があるという見込みがあって初めて家宅捜索も、人を呼んでの調査も行われるものだ」、「見せしめであると同時に恥をかかせようとする行為」と噛みついてみせた。

 自身が立件された点についても「立件するというならしてみよ」、「公捜処は国民の関心が立件の基準のようだ」と徹底抗戦の構えだ。

「第2の有力候補」は尹錫悦氏への援護射撃になる

 こうして韓国の政権与党と尹錫悦前検事総長との非建設的な攻防の間隙を縫うようにして、洪準杓氏が野党の有力な第2の候補として台頭してきたことは、文在寅政権の尹錫悦氏排除を軸とする大統領選戦略にも少ならぬ影響を与えるだろう。

 文在寅政権と民主党は尹錫悦前総長排除に全力を傾けている。その間に洪準杓氏の勢いが増してくれば、文政権と与党の攻撃対象も分散されることになる。

 洪準杓氏の出現は尹錫悦氏にとっても一瞬の援護射撃になる可能性もある。野党の大統領候補は誰に決まるのか、そして来年3月の選挙で次期大統領の座を手にするのは誰か。大統領選の対決の構図はまだまだ固まりそうもない。

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