1985(昭和60)年に登場し、そのパワフルな走りと姿で一斉を風靡したヤマハのバイク「VMAX」には数々の逸話があります。設計段階から販売終了まで、どのようなドラマがあったのでしょうか。

元々アメリカだけで販売される予定だった

2017(平成29)年8月、ヤマハVMAX」が生産終了。32年の歴史に終止符を打ちました。排気量1200cc、Vブーストシステム付きエンジン搭載で145馬力を誇ったモンスターバイクは当時世界最強と言われ、その力強い姿も相まって高い人気を獲得しました。

現在も高い人気を誇るVMAXですが、その人気を裏付けるかのような、数々の逸話や伝説があります。

VMAXは当初、北米への輸出用車種として開発・販売が行われていました。当時、アメリカを中心に高い人気を誇っていたハーレーダビッドソンとは一線を画す独特なデザイン、そしてVMAXの代名詞であるVブーストを搭載した圧倒的なパワーで、瞬く間にファンを獲得していきました。

北米での成功の一方で、日本市場へは逆輸入という形でしか出回っていませんでした。日本発売モデルの登場はデビューから5年後の1990(平成2)年のことです。

国内の各バイク製造メーカーは1973(昭和48)年から、当時社会問題となっていた暴走族や悲惨なバイク事故などを背景に、排気量を750ccまでに自主規制していました。その規制が1990年に撤廃されたあと、最初に誕生した“オーバーナナハン”のバイクが、国内仕様の初代VMAXだったのです。

国内仕様の登場はファンにとっては念願の出来事でしたが、「馬力を最大100に抑える」という自主規制はまだ業界に残っていたため、目玉であるVブーストは未搭載での販売でした。

やはり多くのユーザーは、かつてないハイパワーのマシンを求めたのでしょう。ヤマハ発表によるとVMAXの販売台数は、初代の北米モデルが累計9万台以上を売り上げたのに対し、国内仕様は、北米より販売期間が短いとはいえ、4165台という結果でした。

独特のデザインは「巨匠」が考案!

VMAXの特徴の一つである独特のデザインは、榮久庵憲司(えくあん・けんじ)さんの手によって生み出されました。

榮久庵さんは多分野で功績を残した“日本工業デザイン界の巨匠”で、誰もが目にする代表作のひとつが、キッコーマンの「しょうゆ卓上びん」。さらに、JRA日本中央競馬会)のロゴマークから、東京都シンボルマークにも携わっているほか、鉄道車両のデザインでも数々の作品を残しています。

榮久庵さん率いるデザイン会社「GKインダストリアルデザイン」が手がけた鉄道車両は、「成田エクスプレス」の253系E259系をはじめ、首都圏のJRの歴代主力車両である209系電車、E231系電車、E233系電車など枚挙に暇がありません。

そんな巨匠、なんとヤマハオートバイ第1号である「YA-1」のデザインも手掛けています。満を持して生まれたVMAXは、2008(平成20)年のフルモデルチェンジを迎えるまで、榮久庵さんのデザインでバイクファンの脳内に強く印象付けました。

「馬力は出せるだけ出してくれ!」

ちなみにVMAXは先述のとおり、北米向けに開発されていたため、設計段階で現地の声を多く取り入れることになりました。

設計にあたり、日本の開発陣はアメリカチームに「何馬力くらいで作る?」という相談を持ちかけました。アメリカチームの答えは「出せるだけ!」。開発チームはその声をうけ、1気筒に2つのキャブレターを連結させたツインキャブにすることで145馬力という前代未聞のハイパワーを引き出すことに成功。多くのライダーにフル加速を躊躇わせたと言われる唯一無二のエンジンは、こうして生まれたのです。

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VMAXヤマハの至宝であり財産。ヤマハのモノ創りの精神である人機官能の象徴です。走る、見る、触れる。そのすべての瞬間にまだ出会ったことのない感動をお届けしたい。VMAX、その細部にヤマハが宿る」

ヤマハ2014(平成26)年11月に公式Twitter上で発したメッセージ。その思い入れの強さをうかがわせます。それだけに、2017年の突然の販売終了のニュースは、ファンにとって驚きでした。

2008年のフルモデルチェンジも、世界的な排ガス規定を切り抜けて「VMAX」ブランドの生き残りを遂げたものでした。生産が終了して4年が経過したVMAXですが、ふたたび復活し3代目が誕生する時を心待ちにするファンの声も多く見られます。

1985年登場の初代「VMAX」(画像:ヤマハ)。