新しい日本の通貨が動き始めた。

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 国立印刷局東京工場(東京都北区西ケ原)で新紙幣の印刷が9月1日から開始された。2024年には流通が始まる。

 この新紙幣(1万円、5000円1000円)についてSNSではフォントデザインについて多くの意見が出され議論が活発になった。筆者はデザイナーとしてそれらの意見に共感を持ちつつも、見本画像だけでジャッジすることに違和感を覚えずにはいられなかった。

 国家や国家の連合体が発行する通貨は経済システムにおいて信用と価値を保障する手段でもあり、その評価には一定の時間がかかる。デザインを含めた出来不出来の評価は、少なくとも市場に流通してから数年を待たなければならないだろう。

 ましてや、今は電子マネーの普及や暗号通貨の台頭によって通貨そのものの再定義がなされている時代だ。形として実体をもつ通貨のポジショニングは10年後には大きく変わっている可能性がある。

 取材のために国立印刷局からメールで送られてきた新紙幣の見本画像をチェックしながら、これは紙幣や貨幣の歴史を知ることが重要なのではないかと思い立ち、国立印刷局と造幣局に取材を申し込んだ。

 ともに財務省からつながる独立行政法人である2つの局は、一般公開されている博物館を擁している。この博物館での取材を通して、これから発行される新紙幣と新硬貨について考えてみたい。

●「お札と切手の博物館」を訪問

 JR王子駅中央口から徒歩3分の場所にある「お札と切手の博物館」は、紙幣と切手の歴史を知るための施設である。展示施設内に新紙幣の実物展示はないが、財務省の発表と連動したパネル展示による説明がされている。

 偽造防止のための3D画像によるホログラムや、視覚障害をお持ちの方が指の感覚によって紙幣の種類を判別できるマーク、額面を表すアラビア数字の大型化などが解説されていた。

 博物館そのものは比較的コンパクトで、ビルの1階と2階が展示スペースとして公開されている。それでも展示内容は充実しており、紙幣という単一分野の展示物を扱った施設であり、技術的な面と歴史的な経緯を一通り学べる。

 紙幣の原版や印刷技術を説明するための模型、重要文化財に指定されている日本最古の近代印刷機であるスタンホープ印刷機は見ものだ。製紙の材料となっている綿花や三椏(みつまた)の枝も実物が展示され、どんな原料が紙幣となるかも知ることができる。

 太平洋戦争中から戦後にかけては、物資の不足や混乱のために低品質で粗雑な紙幣が出回ることになった。戦時体制における余裕のなさは、経済システムに欠かせない紙幣でさえも厳しい状況におかれていたことを知ると、現代における安定した通貨発行システムは平和であることの証左であると感じる。

 世界各地の紙幣やその歴史、さらには切手についても展示が充実しているので、新紙幣に興味を持たれた方はぜひ見学してみて欲しい。入館料は無料。

●「造幣さいたま博物館」を訪問

 JRさいたま新都心駅東口から徒歩約12分の場所にある「造幣さいたま博物館」は、造幣局さいたま支局内にある展示施設だ。

 造幣局さいたま支局は、通常貨幣のほか、収集用として特殊な技術を用いて造られるプルーフ貨幣や勲章等の製造を行っている。

 新1万円札の肖像として使われた渋沢栄一氏の姿は、すでに平成26年2014年)に記念硬貨の肖像として使用されていることをこの取材で初めて知った。こちらも入館料は無料だ。

 新紙幣の話題はTVや新聞のニュースにも大きくとりあげられ、フォントデザインの視点でもブロガーの方やネットウォッチャーの方々が意見を述べられている。それに比べると新500円硬貨は話題が少ない。しかし、本稿で博物館内や工場の一部を初めて見学させていただいた体験はとても面白く興味深いものだった。

 紙幣は日本銀行から市中の各金融機関が紙幣を受け取った時点で発行となるが、貨幣は財務を通じて日本銀行に納められた時点で発行となること、地方自治法60周年記念貨幣や各種貨幣セット等の製造は造幣局にとっても有益であることなど、担当職員の方々からお話を伺いながら知的好奇心を刺激される時間だった。

 記念貨幣について、職員の方がこんなことを語られていた。「工芸的な見地からは造幣局よりも高いレベルを持たれているところはあります。ただし、これだけの量産レベルでここまでの品質を提供できるところは造幣局が一番だと思います」

 工場見学通路で特別に撮影を許可していただいた、プルーフ貨幣セットに使用される新500円貨幣の『スペシャルバージョン』とも呼べるものが上の写真だ。

 最終工程での加工が通常の500円貨幣とは異なり、地の部分に鏡のような仕上げを施すことで絵柄のデザインもより浮き立って見える。新500円貨幣の素材にはバイカラー・クラッド(2色3層構造)が用いられ、縁は異形斜めギザと呼ばれる不等ピッチの線が刻まれている。

 これらのプルーフ貨幣はさまざまなデザインパッケージに収められ、造幣局が販売する。

●通貨は欲望を信用に換える仕組み

 最後に、通貨の在り方に関連して講談社コミック誌モーニングで連載中の「望郷太郎」(山田芳裕)のご一読をお勧めしたい。作品中では大寒波で滅亡しかかった後の世界を描いているが、ストーリーが進むにつれて「マー」と呼ばれる通貨のようなシステムを巡る、人間同士の欲望や争いのことも描いている。この内容は現代のおける貨幣のあり方を考える上でとても参考になる。

 近い将来、実体としての「現金」は日本国内でも全く必要なくなるのだろうか。確かに日常生活で紙幣や硬貨を使用する機会は以前に比べれば少なくなっているし、この傾向は年を追うごとに加速している。それでも現金が完全になくなることはない。信用を保証する物体としての1万円札や500円硬貨は電子マネー暗号通貨の「原器」であり、カタチを確認するための記号であり続けなければならない役目を負っているものだからだ。

 「望郷太郎」に描かれていたような地球規模の壊滅後でなくとも、災害や天変地異による電子ネットワークの破壊が起きてしまった後はインフラの再構築に相当の時間がかかる。そのとき一時的に現金を使うしかない状況が発生することは、私たちがすでに3.11で経験したことでもある。

 ヒトは生きるために食べる、生活するという欲望は必要なもの。それを通貨という信用を物体にしたものが現金であり、決済の主流でなくなりつつある紙幣や貨幣は「決済手段最後の保険」として残るだろう。

※取材協力:独立行政法人 国立印刷局/独立行政法人 造幣局

9月22日午後11時20分修正】国立印刷局王子工場についての記載が間違っておりましたので修正いたしました。また、一部画像に違う写真が入っておりました。訂正し、お詫びいたします。

10月1日午後5時10分修正】独立行政法人 造幣局の指摘により、一部表現を修正しました。

(菊池美範)

2024年に日本銀行から発行が予定されている新券(1万円、5000円、1000円)画像提供:独立行政法人 国立印刷局