年に2回春と秋、太陽が赤道の上を真東から昇り真西に沈み、昼と夜の時間が同じになる時を迎えます。秋は「秋分の日」がそれにあたります。地球上で皆が等しく迎えるのになぜ日本は国民の祝日になっているのか? ちょっと不思議に思いませんか。
太陽をよすが農耕に励んできた日本人にとって、けじめとなるこの日を大切にしてきた気持ちは誰の心にもおさまるものでしょう。お彼岸のお中日にもあたり先祖の供養にお墓詣りをする習わしにもなっています。何げなく過ごしている秋の休日「秋分の日」を考えてみたいと思います。


いつから「国民の休日」に?

「国民の休日」は昭和23(1948)年に法律で定められました。「美しい風習を育て、よりよき社会と豊かな生活を築くために、祝い感謝する日」とされています。その中で「秋分の日」は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」と書かれています。亡くなられた先祖の方々をしのぶ日が法律で決められた理由は明治維新にさかのぼります。
武家の支配から天皇中心とした新しい国の体制が築かれた明治維新、宮中で「秋分の日」に行われていた歴代天皇の御霊を慰める儀式は「秋季皇霊祭」として明治41(1908)年に制定された「皇室祭祀令」に組み入れられました。これを踏まえ第二次世界大戦後、天皇を国の象徴と記した新しい日本国憲法の下、天皇とともに国民もこの日を先祖へ心をはこび過ごす日として定められたのです。
ちなみに「春分の日」は、国民に向けては「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日とされていますが、皇室では秋と同じように「春季皇霊祭」が歴代天皇への慰霊の日として「皇室祭祀令」に定められています。
春と秋の季節の変わり目にお墓詣りへいく習慣は、すでに国民の生活の中にとけこんでいたこと、ゆえに法律の中に取り入れられたのかもしれませんね。
参考:
内閣府HP「国民の祝日」


先祖を敬う「お彼岸」がなぜ「秋分の日」に?

太陽が真東から昇り真西に沈む、この特別な日を春と秋にあるお彼岸のお中日として先祖に思いを馳せる日となったのは、西の彼方に極楽浄土があるとした浄土教の流行に始まりがあるようです。先祖のいるあの世は三途の川の向こう側「彼の岸」にある極楽世界であり、私たちの生きる川のこちら側は現世「此の岸」となります。「彼岸」の極楽世界が西にあるとすれば「此岸」は東。真東から昇り真西へと向かう太陽に、この世の私たちからあの世のご先祖へ供養と感謝を乗せていったのだな、と想像をふくらませることができます。
「秋彼岸山は入り日を大きくす」 成田千空
「訪ふ度に小さき母や秋彼岸」 越智麦州
「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」 山口誓子
お彼岸の日の心に映る心象風景は人によりさまざまです。誰にでもきっと心に残るお彼岸の想い出があることでしょう。今年のお彼岸には東から西へどんな景色が見えてくるのでしょう、楽しみですね。


魔除けの「赤」? お彼岸のお供えといえば…

日本人の節目のお祝い事に欠かせないのが「小豆」です。すでに『古事記』や『日本書紀』に小豆は五穀として記載があるとのこと。縄文遺跡からも種子が発掘されているなど、小豆と日本人は歴史の中で深く交わってきたことがわかります。
「小豆」で一番の特徴は色「赤」です。赤は太陽の赤、燃える火の赤、そして血液の赤、どれも生命のエネルギーを象徴するもの。小豆は今でも栄養豊富な豆として私たちの身体をつくり、健康を保つ力を発揮しています。それと同時に古代では、赤い色に命をつなぐ願い「魔除け」の意味も込めてきました。小さな子が着ける金太郎の赤い腹掛けや還暦を祝う赤いちゃんちゃんこ、など今でもお祝いごとには縁起をかついで使われています。目に鮮やかな赤の力は今も健在です。
お彼岸のお供えといえば赤い小豆の「おはぎ」です。もち米うるち米を炊いて軽くつき、丸めて小豆でつくったあんこで包みこんだ誰でも知っているお彼岸のお菓子の定番です。家庭で手作りしたたっぷりと大判のものから、老舗和菓子店の技の光る品を感じさせるものまでさまざまに出まわります。どれを食べてもそれぞれに美味しく感じます。
春には「ぼた餅」とよび秋には「おはぎ」という。同じお菓子ですが、季節にあわせひとつの物をどう見るか? ここには「見立て」という日本人の美意識が光っているのです。
年に2回起こる太陽の動きを捉え、生きていくよすがの一つとして取りこみ、またそこに楽しみを見つけていったご先祖とともに、今年も「秋分の日」を過ごしていきたいですね。

「秋分の日」が国民の祝日なのは日本独特?