人間の苦しさというのは他人と比較して自分がいかに未熟で、不幸で、無能で、不運で、イケてないかを思い知らされ、悩み、怒り、嘆き、しかし涙がこぼれないように上を向いて歩こうという言葉に凝縮されているように思うんですよ。

非モテ童貞だったあの頃

 思い返せば、それほど頑丈な身体に生まれず他人より疲れやすい体質の私は、体育会で活躍し女の子にモテモテな級友の背中を見て「ちくしょう」と思いながら、会社員のような勤め人をやっていても負けるだけだと身体を使わなくても良い投資家を目指した20代が懐かしく思います。もう30年ほど前でしょうか。

 コンプレックスというのはたくさんあって、私も長らく非モテ童貞でしたし、どうにか結婚したい、いつかは子どもを儲けたいという気持ちを掲げながらジメジメとした中高生時代を送りました。

親ガチャ」という観点からすれば

 生まれ育った家庭も幸せな時期もあったけど親父お袋の不仲のころも長く、身体は弱い、左利きだ、小学校中学年までいまでいう識字障害を持ち満足に本も読めずに生きてきた中で言えば、少なくとも「親ガチャ」という観点からすれば「当たり」ではないかもしれません。なかなか帰ってこない親父を泣きながら待っているお袋を慰めながら受験勉強に精を出し、物心ついたあたりで本当に「こんな俺を生みやがって」と長い長い反抗期を迎えたのも当然でしたし、自分の気持ちを整理するために多くの時間を費やしたのは苦い思い出です。

 いまとなっては笑い話ですが、しばらく帰ってこない親父をお袋と待っていたら、おそらく親父の愛人であろう女性が自宅に怒鳴り込んできて、さらに「別の女にあんたの亭主が取られて悔しいと思わないの!?」と煽ってきたことがあり、後日、帰宅した親父に「親父の愛人から罵られたけど、恨み買うような遊び方しないほうがいいと思うぞ」と申し上げたところ、こっぴどく殴られました。江戸っ子だった親父は「昭和の男の甲斐性だ」と豪語していましたが、そんな親父も風船がはじけたように小さくしょぼくれた老人になって私に車椅子を押される日々が来たと思うと、いわゆる「親ガチャ」なんてそんなもんだろと感じます。

子どもの「大ハズレ」にならないよう、目下努力中

 反面、親父の奔放な生活で苦労した家庭で育ったがゆえに、私の子どもたちにはそんな苦労はさせたくないと思って、銀座のクラブ六本木麻布のラウンジにはほとんど足を踏み入れずギャンブルもやらず酒も宅飲みメインになって品行方正に発泡酒飲んでソシャゲを楽しむ私は、自分の努力で子どもにとっての「親ガチャ」は「大ハズレ」にならないよう努力をしている最中です。せめて子どもには学歴で苦労しなくて済むよう、子どもたちに嫌がられても勉強しろしろと日々言い聞かせるのはいいことなのかどうか。

 その点では、誰もが「親ガチャ」なる単語があれば、その強いワードゆえに気持ちを揺さぶられるのは当然でしょう。

 もしも親がもっと裕福だったら。凄い運動能力を引き継いで生まれてきていたら。自分がもっと賢かったら。こんなクソ田舎に生まれ落ちてなかったら。あるいは、日本ではなくもっとほかの国の、幸せそうなところで生まれていたら。

 そもそも「親ガチャ」を考えるに、独身時代にせめてもと思い児童養護施設に定期的に寄付をしていた際、明らかに親子間のコミュニケーションを満足に取れない両親のもとに生まれた悲しい境遇の子どもたちが元気に遊んでいる姿を見て、「あ、彼らのために何ができるだろうか?」と強く感じたのを思い出します。

衰退しつつあるとはいえ、日本はそこそこ幸せな部類なのだが

 客観的には、衰退しつつあるとはいえ、文明国の日本で人権に守られてそこそこ安定した社会で飢えることなく暮らせているだけで、本当は人類としては幸せな部類なのかもしれません。当たり前のようにまあまあ食べることができ、人間関係や仕事で気苦労はあるけれどどのような人生の選択も一応可能になっている自由は、必ずしも当然のことではありません。もうすでに得ていたものは、それを得るために苦労した先人がどれだけ議論し、働き、築き上げてきたのかも知らずに当然の権利であるかのように思うのはしょうがないのかもしれない。

 そんな恵まれた現代日本に生まれても、その隣で生きている人は自分よりも裕福そうだ、幸せそうだ、モテそうだ、人望が厚そうだ、ちくしょう、もっと俺もいい暮らしがしたい、幸せになりたい、モテモテでありたいというのは人情です。生きてるだけで丸儲けと思うほど諦めきれず、自分のしたいことができていれば満足と割り切ることもできない現代社会はとかく人と比較され、幸せそうな人の情報が垂れ流され、もっと良い暮らし、素晴らしい人生があるのだと思い知らされます。

年収2000万で小遣い2万円の商社マン

 おカネを持っていれば持っていたで、あっちのお父さんは年中家族で旅行に行っているとか、タワーマンションに住めばあっちの奥さんはもっとグレードの上の湾岸タワマンに移住して高い階でもおいしいお米が炊ける炊飯器を買っているとか、人間の欲望と比較対象は常に青天井です。

 比較的上手くいってるなと思っていた同級生は商社マンで、日本に戻ってきて年収2000万の暮らしをしているのにしょぼくれたスーツを着ていて、子どもが中学受験で私立小学校とSAPIX通いで小遣いが2万円だと言われると「そう…」と思ったりもします。それだけの年収を貰っていても、ボーナスを抜けば手取りは毎月80万円ぐらい。都会暮らしで住宅ローン子どもの受験代を払っていたら、実のところそこまで楽勝でもないのが人生です。こんなに稼いでいても、この程度の生活なのかと嘆かれることが多いのはこのぐらいの年収で、子どもに教育費がかかる30代後半から40代が多いでしょうか。そのぶん、太陽をいっぱいに浴びて外で遊んでいる区立通いの家庭の健全さが羨ましく見えてしまうのも、隣の芝は青いからです、たぶん。

 かと思えば、町内会ではどんな仕事をしているのか分からんような中高年の面々が、疲れた表情で自治体から相談された美化運動や高齢者見回りの割り当てを貰って白い顔でおのおのの作業に向かいます。去年町内会に来たときはどこそこの大手製造業で執行役員をやっていたと前歴で威張り散らしていた人が、家庭でも地域でも居場所がなくなって薄くなる髪と共にだんだんと生気を失い、とぼとぼと軍手と箒を持ち駅前を掃除しているのを見て「人間って何だろう」と思います。

「人生のネタバレ」が溢れかえるなかで

 それもこれも、いわゆる「親ガチャ」。つまりは人間の出来不出来は一種の運命論であって、両親の所得や資産、人脈のあるなしや、両親から譲り受けた遺伝的特徴の優劣でだいたい決まってしまっている、自分の努力ではどうにも埋められない深く広い溝があるのだという思想が根底にあるように感じます。

 それは、以前なら「毒親」とか「人生クソゲー」などのキーワードと共に消化されてきたネタバレ人生みたいな側面もあるのでしょう。先日、評論家の御田寺圭さんも若者の諦観を解題して「人生のネタバレ」というワードで解説していましたが、これらの議論が深い共感を集めるのも努力して上積みをしても、すでに中高年が椅子を独占し、必ずしも自分の富が増えるわけでもなく、苦労に見合う幸せが得られないのではないかと思う若い人たちが少なくないからなのだとも思います。

親ガチャ反出生主義…若者たちは「人生のネタバレ」に絶望している
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87455

 自分自身が上手くいかないのは、自分の責任ではないのだ、実家の太さや両親から受け継いだ遺伝や社会など環境がいけないのだ、と他のことに原因を見出す。

 いま起きているうまくいかないことや、他人との比較で劣っていることは、誰かのせいなのだとすることで、自分自身がスッと楽になる瞬間が、おそらくはそこにあるのでしょう。

「うまくいかないのは自分のせいではない」でストレス緩和

 イケてない自分の現実と向き合うことほど、精神が削れることはありません。上手くいかない責任を誰かに押し付けたり、陰謀論を語ることでストレスを減らそうとするその魔法の呪文が「親ガチャ」なのだとも言えます。もちろん、就職氷河期ロストジェネレーション的なアプローチもありますし、その意味では私も氷河期世代ですし、第2次ベビーブーム世代はバブル崩壊後に社会に出て、その後ほとんど好況を経験することがない人たちが少なくないのも特徴です。希望が見えない、うまくいかないのは自分のせいではないのだ、と言えればどんなに楽なことか。

 他方、罪のない母子が亡くなってしまった自動車事故で、運転していた高齢の人物が叙勲までされた経歴が晒されると「不逮捕特権のある『上級国民』だ」との言説が流布したこともありましたが、これもある種の「自分の属性ではない誰か」であると線引きをして安心をしようとする作用があります。自分ではない誰かというレッテルを貼って安心しようとする精神の動きとたいして違いはないのかもしれません。

配られたカードでやっていくほかない

 私の大好きなスヌーピーの名言で、「配られたカードで勝負するしかないのさ」という言葉の重みを感じます。犬にそんなこと言われたくねえと思う一方で、この拭い去りがたい自己責任論の裏側には、自分の人生は自分で決めるしかなく、幸せに生きようとするためには、誰かに助けてもらうことはできず、何が自分にとって幸せかを考え、自分にできることは何かを突き詰めていきながら日々を悔いなく過ごすほかないのだとも言えます。

 社会が悪い、政治が悪い、コロナが悪い、医者が悪い、学校が悪い、会社が悪いと誰かの責任にしたところで、人が人と生きていくのが現実である以上は、誰かの責任に転嫁しても自分が不幸であることには変わりはない。自分の幸せは自分の気持ちの持ちようだという陳腐な言葉ですらも、せめてもの支えにしながら「自分の持つ資産や能力でできること」「自分が提供できる価値は何か考えること」を一歩一歩積み重ねていくほかないのでしょう。

 この「人生は配られたカード論」はある種のマッチョリズムを秘めながらも、でも自分の人生を他人や行政がどうにかしてくれるほど、世の中は暖かくはないかもしれないという危機意識を持って、できることをやって生きるしかないという現実も示すのです。

 そういう泥臭い努力の積み重ねも、社会に対して絶望していたり、明るい光を見つけられなかったりすると、すべてが無駄なことのように思えます。親ガチャに外れたのだから、どうせ何をやっても無駄だという判断になるのは、確かに自分の人生に対する諦めだとも言えます。

親ガチャ」「人生クソゲー」それらはただの呪いの言葉

 ただ、じゃああなたは何のために生まれたの。何をするために生きていくの。そういう問いを大学生大学院生にぶつけると、それなりの割合の若者たちが「そんなことを考えたこともなかった」とか「希望する職業までは言えても、自分が何を人生で為したいかこれから考えたい」などという返答をしてきます。何をするのかまだはっきりとわかっていない状態なのに、環境や遺伝が失敗を運命づけているなんて話ができるわけがないじゃないですか。

 結局のところ、これら「親ガチャ」にせよ「人生クソゲー」にせよ、自分の人生で何を為したいか分からない、また、いままで過ごしてきた時間はもう戻らないという言葉を言い換えた呪いの言葉でしかないのかな、と思います。何か価値のあることを始めようというときに、いまこの瞬間が、貴方の人生にとって一番若いときなんだということを忘れています。

 高卒ならいまから大学を目指したっていいだろうし、婚活アプリに登録したり、より良い仕事を求めて転職や研修を受ける気持ちがあるならサイトを巡ってもいいんじゃないかと思うんですが、諦めを超えて、一歩前に出るためにまずは行動してみるというのがいいんじゃないでしょうか。

 20代のころは非モテに悩み、34歳まで童貞だった私も、ご縁を探していまの家内に巡り合い、素晴らしい家庭を一緒に築いて子どもも4人儲けることができたのは奇蹟でしかないと自分でも思っています。ただ、幸せを維持するためにいろんなものを我慢したり、次に繋がることのために何かを諦めることは往々にしてあります。そういう選択肢を少しでも増やすことができ、日々何かを達成できるよう歩き続ける人生であるほうがいいと思うんですよね。

 我が子たちが、車椅子に乗った私を押してくれる日が来るのなら。

(山本 一郎)

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