/コロナとともに、「近代」が終わろうとしている。しかし、それは何だったのか、次はどうなるのか。それを読み解く鍵は、中世が終わり、近代が始まったころの世界の大変革を理解することにある。/


 大きく今に至る「近代」と言っても、さらに宗教に代って絶対君主制が成立した《近世》、ナポレオン戦争を経て産業革命資本主義が成長した《近代》、そして、二つの世界大戦を経て民主主義と人権尊重がうたわれる《現代》、と、大きく三つの時代に分けられ、哲学もまた、それぞれの時代に応じて、当時の課題に対する試案を提起し、さまざまに議論されるところとなりました。

 《近世》で問題となったのが、宗教に代わる知の源泉です。それまで、人間は考えるな、教会の言うことに従っておけ、という姿勢だったのに対し、近世になると、みずから知の根拠を打ち立てる必要を生じました。ここにおいて、合理性と実経験と二つの知の源泉が考えられ、それぞれの利点欠点から、SFのような不思議な世界観が構築されました。

 しかし、《近代》になると、なんとでもできる、なんにでもなれる世界や自分の可塑性が自覚されます。そして、このことは、世界をどうすべきか、自分は何になるべきか、という、まったく新しい問題に、すべての人が直面することになります。そして、哲学もまた、理想と現実の間の亀裂にもがき苦しむことになります。

 そして、《現代》において、巨大化しすぎた政治や経済は、世界大戦、難民紛争、環境破壊、経済危機などをもたらし、また、多様な文化と倫理の混乱など、社会も統一性を失い、さらに、貧富格差や疫病蔓延も脅威となり、これらの多くの問題が複雑に絡み合って、我々はいま、先の見通しの立たない壁に直面しています。つまり、哲学は、どこか遠くの話ではなく、いま、我々がその直中に立たされている課題そのものなのです。


フランスの台頭

 十字軍による先進のインドイスラム世界との接触から、ヨーロッパの硬直した中世秩序は崩壊し、ルネサンスという経済的・文化的な繁栄の時代が訪れました。そして、地中海東方貿易のイタリアアフリカ経由インド貿易のポルトガル、中南米侵略貿易のスペインが、あいついでこの繁栄を享受していきます。

 一方、いなかのフランスでは、宗教改革の後、王室が旧教を堅持したのに対して、「ユグノー」と呼ばれる新教カルヴァン派が一部の領主貴族と中産階級を中心に普及し、ついには「ユグノー戦争」(1562~98)という内乱にまで発展してしまいました。そして、この結果、ユグノーの指導者アンリ四世(1553~即位89~1610)が旧教に改宗して王位に就き、ブルボン朝を開くという妥協的解決が図られ、これによってフランスは近世的絶対王政へと歩み出すことができました。

 また、新教カルヴァン派の多かったオランダも、一五六八年、領主オレンジ家を中心に、ハプスブルク家の支配する旧教国スペインからの独立戦争を起こします。そして、これとともに、オランダは、中世からのバルト海貿易に加えて、新たにポルトガルから力づくでインド貿易を奪い、これまでのスペインに代る新たな国際貿易国家として世界各地へと乗り出して行きます。そして、これまでのイタリアに代る新たな先進自由都市として、ここに多くの優秀な技術者や貿易商や知識人も移り住んで来るようになりました。こうして、オランダは、英仏独という北ヨーロッパ諸国の中央に位置して、しだいに経済的・文化的な中心地域として発展していったのです。

 しかし、ドイツでは、もともと中世以来、諸侯割拠の状態にあり、くわえて、宗教改革以後は、それぞれの諸侯がそれぞれに旧教徒や新教徒と結んで対立するようになってしまいました。すなわち、北独では、新教ルター派が優勢であるのに対して、南独では、ドイツ全体の連合体制である神聖ローマ帝国の皇帝を出すハプスブルク家の旧教が強力でありながら、新教ルター派や新教カルヴァン派も混在している、という状況でした。

 このように、一五一七年に始まった宗教改革は、しだいに貴族領主を中心とする旧教徒と、成金市民を中心とする新教徒の対立となっていったのであり、このために、両者の間の宗教戦争は、市民革命的な性格も含んだ「宗教革命」だったのでした。

 しかし、フランスでは、成金上層市民が土地を買って買地貴族領主となり、また、官職を買って買官貴族官僚となり、一時は中央集権的な勅任雇用官僚の制度と対立して「フロンドの乱」(1648~53)を起こしたりもするものの、その後は、ヴェルサイユ宮殿を中心とする王室サロンに吸収され、中央集権絶対王政を確立していくようになります。

 また、オランダは、古い中世自由都市型の共和国となったために、総督オレンジ家への中央集権が不徹底であり、「チューリップ狂」時代(1636)とその後の不況、イギリスフランスとの覇権争い(1652~78)などの戦乱によって衰退していきます。

 そして、ドイツは、周辺諸国がすでにこの「宗教革命」を経て、親旧教領主体制から親新教市民体制に転向していたために、国際的な介入を受け、地域小邦ごとの利害に終始して、領主と市民の分離が起らず、時代から取り残されていきました。

 このような新旧両教の政治的対立において、「魔女狩り」という名目で敵対者を計画的・組織的に殺害することも流行しました。この中には、ただたんにはじめから財産没収を目的として、資産家などを「魔女」にでっちあげて殺してしまうことも少なくありませんでした。いずれにしても、このように宗教は政治の道具としてふたたび勢力をもりかえし、国際紛争の中、官僚制と常備軍を持つ近代の絶対国家への勢力統合とともに、[王権は神から授けられたものである]とする《王権神授説》によって、明確に国王権力の中核の一部をなすことになります。

 これは、中世ではローマ教会が全体的に支配していたのに対し、近代では国民国家が地域的に支配するようになった、ということであり、宗教支配が国家の中に採り込まれていった、ということです。したがって、ヨーロッパのキリスト教支配は中世において終ったのではなく、近代においても已然として続いたのです。このように見ると、ルネサンスは、この宗教構造の組み換えの一時的な真空状態にすぎなかったと言えるのではないでしょうか。


途上新興国イギリス

 辺境のイギリスにおいては、イタリアルネサンスが開花していたころは、フランスとの間で大陸側の領土に関する「百年戦争」(1339~1453)があり、また、この敗退後、ポルトガルスペインが世界に乗り出したころには、国内の王位争いである「ばら戦争」(1455~85)があり、これらの戦争を通じて、国王を中心とする諸領主貴族の中央集権的統一が成立していきました。つまり、国王は、地方分権的な領主貴族を政府の役職に勅任することによって、全国組織としての国家政府を確立していったのです。

 その後、イタリアポルトガルスペインオランダも、その繁栄を持続させることができず、結局はあいついですぐに没落していきました。これらの国々は貿易の中継によって繁栄していたにすぎず、また、その収益も戦争や贅沢によって流出させてしまい、主流となる貿易の相手地域が変化してしまうと、別の中継国にその地位を奪われざるをえなかったからです。

 そして、最終的に台頭してきたのは、むしろ、これらの中継国に貿易品・贅沢品として恒常的に毛織物を生産輸出していた辺境国イギリスの方でした。とくに、国王の離婚問題をきっかけとして一五三四年にイギリス国教会が創設され、国王が膨大なローマ教会財産を没収売却したことで、政府が独自の財政基盤を築くとともに、多くの自営農民(ヨーマンリー)や中小地主(ジェントリー)もその経営資本を獲得し、貧しかった北西部の農村を中心に、毛織物のほか、さらに商業作物や加工農産物や金属皮革製品などをも生産するようになっていきます。

 くわえて、大陸での新旧両教の対立が激化した十六世紀の後半にもなると、新教徒として亡命を迫られていた先進国の熟練者を積極的に受け入れたので、技術改良が進展して、生産性も向上していきます。こうしてイギリスでは、戦争や贅沢に浪費した旧来の領主貴族が没落する一方、国王は新興の地主や商人を官僚貴族に抜擢し、国民と国王とが一体となって富国強兵に努力する近代の絶対主義的国民国家が成立していったのです。

 とはいえ、新興国イギリスは、かならずしも先進国であったわけではありません。むしろ、国王とその周辺は、異様なほど時代錯誤的でした。国教会の創設も、およそ近代的な宗教改革の問題とは関係なく、たんに国王の離婚という私情に基づくものであり、むしろこのローマ教会からの離脱によって宗教改革の影響からも免れていました。そして、中世のローマ教皇の権威と同様の《王権神授説》を主張して、国内支配の根拠としていったのです。このことは、ある意味では、イタリアなどの先進地域の近代化の変貌に追いつけず、辺境地域に抑圧的な中世ローマ教会体制のミニチュアが残存してしまった、と解釈することもできるでしょう。


モンテーニュの内省的人文主義

 モンテーニュ(1533~92)は、フランスボルドーの領主の家庭に生まれました。しかし、彼の一家が中世以来の封建領主であったわけではありません。十五世紀に彼の曽祖父が、ジロンド川三角江口のイギリス向けワイン積出港であるボルドー市で貿易商を始めたのが最初でした。この商売ははなはだ成功し、曽祖父はその利益で土地を買い集めていきました。そして、彼の祖父が商売をさらに発展させて、市の裁判参事となり、彼の父は、モンテーニュ領領主として貴族に列せられ、また、教養と財産にあふれたセファルディム(スペインユダヤ人)の大商人の娘と結婚します。

 このように、一般に、十六世紀においては、中世末期のユダヤ人追放以来の成金上層市民は、その利益で土地を買収することで、買地貴族領主にまで成り上がっていったのです。これが次の十七世紀になると、全国一般的に貨幣経済や官僚制度が整備されていったため、成金上層市民は、その利益で官職を買収することで、買官貴族官僚に成り上がっていくようになります。

 財産と地位は充分ながら、教養の不足を感じていたモンテーニュの父は、彼には教養を身につけさせようと、わざわざドイツから三人の家庭教師を招き、ラテン語のみで育て上げました。そして、彼はボルドー大学で法律を学び、市の裁判所に勤め、また、五四年、彼の父もボルドー市の市長になりますが、おりしも、ドイツで起った宗教改革による新旧両教の対立がフランス王家の内紛も絡んで激化し、ついには「ユグノー戦争」(1562~98)となってしまいます。

 しかし、六八年、彼が三五歳のとき、彼の父が亡くなったのをきっかけとして、彼は混迷する政治よりも学芸への関心を深め、三八歳で行政から完全に引退し、『エッセー』を書き始めます。『エッセー』とは、試みという意味であり、モンテーニュは彼の高度な古典の教養を駆使して、さまざまな現実的な問題に現実的な解決を試みます。それは、まさに[現実の人間を直視しつつ、理想の人間を模索する]という人文主義そのものでした。しかし、モンテーニュが独創的であったのは、その問題の現実の人間とは、歴史上の人間でも、政治上の人間でもなく、まさに自分自身だった、ということです。

 自分自身を問題として問い詰める〈内省〉は、〈クセジュ(何を私は知っているのか?)〉という問いかけの方法を通じて、種々の知見を収集し、人知の限界を自覚し、克己の良識を確立しようとするものとなっています。そして、むしろ、「空のことより自分自身に注意せよ」として、人知の限界を越えて神や宇宙について論じる神学や形而上学の傲慢さを戒めています。

 内省は、皇帝マルクス=アウレリウスの『自省録』のように、ローマ時代の安心哲学以来の重要な哲学の方法でした。しかし、中世の絶対的な神と教会の登場とともに、自分自身で考察し決断するという態度は消滅してしまっていたのです。そして、ルネサンスにおいては、レオナルドダヴィンチ自画像のように、内省的な自我が芽生えてきますが、しかし、それはあくまで自己の中に無限の可能性を認める、いかにもルネサンスらしい自由奔放なものでした。

 これに対して、モンテーニュにおいては、人知の限界を自覚し、克己の良識を確立しようとする点において、その内省は冷静で客観的なものであり、人間性を直視する人文学として、また、人間性を向上する教養学として、充分に「哲学」と呼ぶことができるものです。そして、このような人間性を探究する人々は、広く「モラリスト」と呼ばれ、フランス文化の伝統となっていきます。

 一五八〇年、四七歳のモンテーニュは、この『エッセー』を出版します。しかし、翌年には、彼は父と同じくボルドー市の市長に推挙されたため、やむなく宗教紛争や疫病流行の困難な時代の政治を行うことになります。それでも、彼は、『エッセー』の書き足しや書き直しによって内省を重ね、思索を深めていきます。そして、いまだ新旧両教の紛争のさなかにあった新王アンリ四世(1553~即位89~1610)は、賢明なモンテーニュに国家の要職の就任を強く要請しますが、彼は固く辞退し、九二年、五九歳で死去してしまいます。


経験知・直感知の実証研究化

 ルネサンスにおいては、神学や社会の制約がゆるみ、実利を目的として多くの冒険的技術者がさまざまな物事を試行錯誤で探究しました。また、異端的研究者たちも、キリスト教神学とは異なる古代世界や東方世界の思想に接して、まったく新たなひらめきを得ることも少なくありませんでした。しかし、このルネサンスの中心地イタリアは、宗教革命期の「イタリア戦争」(1521~44)、とくに皇帝カール五世の「ローマ破壊」(1527)によって、学芸の振興を支えてきた経済の繁栄の幕を閉じることになってしまいました。

 この後、金融名家メディチ家は、コジモ一世(1519~74)を中心に勢力を盛り返し、六九年にはフィレンツェのみならずトスカナ地方全体支配する貴族領主にまで成り上がっていきます。彼は先駆的な近代絶対専制君主でしたが、かつてルネサンス最大のパトロンであったメディチ家にふさわしく、再び学芸を強力に保護し、ピサ大学の改修などに尽力しました。こうして、イタリアは、かつての経済力は失ったとはいえ、ルネサンス以後の非キリスト教文化の中心として再生することになります。

 また、北ヨーロッパでは、宗教革命の後、かえって中世以上に一般俗衆にまでキリスト教が浸透し、中世では進歩的であったパリ大学やオックスフォード大学も急速に保守化して、文献に基づく思弁的研究に終始するようになってしまっていました。しかし、この宗教革命の影響を免れたイギリスや北ドイツなどの辺境地域では、ルネサンス時代の冒険的技術者の経験知や異端的研究者の直感知を実験や観察によって追証しようとする人々が現われてきます。

 たとえば、人文学的な見地からルネサンスにおいてすでにイタリアレオナルドダヴィンチ1452~1519)などの画家が人体に関心を持っていましたが、神聖ローマ皇帝カール五世の薬剤官の家庭に生まれたベルギーのヴェサリウス(1514~64)は、パリ大学、ついで、イタリアベネチアの西隣都市のパドウァ大学で医学を学んで、医学的な見地から多くの解剖を行い、一五四三年、実際の観察に基づく『人体解剖学』を出版しました。

 イギリスギルバート(1540~1603)は、ケンブリッジ大学で数学や医学を学び、ロンドンの開業医となりますが、おりしも大航海時代にあって船員や軍人が活用していた磁石に関心を持ち、これについてさまざまな実験を行います。そして、彼は磁気や磁界の関係を解明し、さらには、静電気を発見し、また、[地球が大きな磁石である]ことなどを発見し、これらの解明や発見を一六〇〇年の『磁石論』にまとめました。この著作には、いまだ神秘主義的な表現が少なくありませんが、しかし、その実験や理論の体系的な構築は、その後の科学的研究方法の模範となっていきました。また、彼は〇一年には、女王エリザベス一世の侍医にもなっています。

 デンマークの領主貴族ティコ=ブラーエ(1546~1601)は、ライプツィヒ大学で法律学を学び、ドイツスイスを遊学した後、一五七十年に帰国します。しかし、その後、彼は天文観測で広く知られるようになり、七六年にはデンマーク国王の支援によってフヴェン島に肉眼による天文観測所を開設し、継続的な天文記録を残していくことになります。

 彼はこの記録によってコペルニクス1473~1543)の地動説を実証しようとしましたが、しかし、「年周視差(太陽を中心とする地球の公転に対応する、恒星の見える角度の差)」を検出することができなかったために、むしろ[不動の地球を中心として、恒星や惑星の公転の中心である太陽が公転している]という複雑な天動説を考え出さなければなりませんでした。そして、九七年の国王の死去後は、穏健な神聖ローマ皇帝ルドルフ二世に招かれて、彼は現チェコのプラーハに移り、宮廷占星術師として天文観測を再開しますが、数年にして急死してしまいます。


地動説の定着:ガリレオとケプラー

 イタリアのピサに生まれたガリレオ=ガリレイ(1564~1642)は、メディチ家トスカナ公コジモ一世(1519~74)が改修したピサ大学で医学を、トスカナ大学で数学を学び、八九年、二五歳でピサ大学の数学教授になります。そして、彼は[すべての物体は等しい速度で落下する]という発想を得て、ピサの斜搭で実験を行ったりもしたようです。しかし、この発想は、当時の[重い物体ほど速い速度で落下する]という「常識」の反発を買い、九二年には、イタリアベネチアの西隣都市のパドウァ大学に移って、力学の研究を続けます。

 また、一六〇九年、彼は望遠鏡の発明について伝え聞くと、自分で工夫してこれを作成し、天文観測に利用しました。この結果、彼は[月面はでこぼこである]ことなどを発見してしまい、これも、[神が創造した天体は完全な球である]という「常識」の反発を買い、一〇年には、同イタリアのフィレンツェに移って、メディチ家トスカナ公の主任哲学・数学者となり、天文学などの研究を続けます。

 しかし、さまざまな天文観測の結果、しだいに彼は《地動説》の確信を強めて行きます。そして、このために、一六年、彼は宗教裁判にかけられ、地動説を放棄するように訓告されます。しかし、彼はその後も研究を続け、三二年、『天文対話』において、ふたたび明確に地動説を主張したため、ローマ異端審問所に召喚され、翌年、自説を撤回させられてしまいます。このとき、彼は「それでも地球は動く」とつぶやいた、と伝えられています。この後、彼は死ぬまでフィレンツェ郊外の自宅に幽閉されてしまいましたが、この間にも、彼は〈慣性の法則〉などを発見し、三六年の『新科学対話』で発表しました。

 また、南ドイツの貧しい家庭に生まれたケプラー(1571~1630)は、給費生としてチュービンゲン大学で神学を学びましたが、地動説を知って天文学に関心を持ち、また、太陽崇拝的な新プラトン主義の影響を受け、高校の数学教師をしながら、九六年、『宇宙の神秘』を発表し、思弁的に太陽を中心とする惑星の配列を論じ、ティコ=ブラーエやガリレオに知られるところとなりました。九九年、新教徒追放令によって、彼は、新教徒が強く、皇帝ルドルフ二世にブラーエが保護されていたプラハに移り、ブラーエの助手になります。

 そして、一六〇一年のブラーエの死後は、ブラーエの残した観測結果を分析し、彼は、〇九年の『新天文学』、一九年の『宇宙の調和』において、音楽からの連想から、惑星の軌道と速度に関する〈惑星運動の三法則〉を明らかにしました。ここにおいて、彼は、磁気を研究したギルバートの影響から、[宇宙は太陽の磁気を動力とする巨大機械である]と考えていました。また、彼は光学や幾何学などの研究も行いましたが、いずれにしても、その一生は病気と貧困がつきまとい、通俗的な占星術だけが彼の収入の手段でした。そして、彼は俸給請願の国会陳情の最中に五九歳で亡くなってしまいます。


フランシス=ベイコンの科学の方法

 フランシス=ベイコン1561~1626)は、新興階級である勅任貴族官僚の家庭に生まれました。そして、彼は穏健的なケンブリッジ大学に学びましたが、しかし、古くさいスコラ学はもちろん、アリストテレス哲学にも大いに不満を抱いただけでした。その後、父親が急死してしまったうえに、遺言がなかったために遺産も相続できず、司法官僚になる努力をしますが、これも失敗してしまいます。ようやく下院議員の議席を獲得すると、彼は弁論の才能を発揮しましたが、しかし、逆にこのことが女王エリザベス一世1533~即位58~1603)の不興を買い、それ以上の官職を獲得することもできず、不遇に甘んじていなければなりませんでした。

 しかし、一六〇三年、女王が死去してジェイムズ一世(1566~即位1603~25)が即位すると、ベイコンもようやく頭角をあらわし、国王の愛顧を受け、ついには大法官の地位と子爵の身分を獲得しました。ジェイムズ一世は、みずから王権神授説を提唱するような中世的で尊大な人物でしたが、一方のベイコンは、近代の合理主義と利己主義の象徴のような人物でした。若いころの不遇も原因ではあるでしょうが、彼は露骨な猟官、法外な贅沢、強引な借金、薄情な忘恩、悪辣な汚職を重ねて、政治のナンバー二まで成り上がっていくのです。

 彼のような近代急進的人間が、ジェイムズ一世のような中世反動的人間に気に入られたのは、おそらく、彼が立身出世のためにドライに権力に媚びへつらったからであり、また、ジェイムズ一世も、近代絶対王制の基礎を固めるために、彼のような有能辣腕な近代的官僚をどうしても必要としていたからでしょう。同じころ、権謀術策が入り乱れるシェイクスピアの政治史悲劇が多大な人気を博したのも、このような打算的政治状況を反映し、皮肉っていたからでしょうか。実際、シェークスピアの地球座劇場には、「この世のすべては演劇だ」という言葉が掲げられていました。

 しかし、彼の権勢も長くは続かず、二一年には汚職が発覚して、彼は地位も身分も喪失してしまいます。ベイコンは、この失脚の後、自分の人生を狂わした立身出世の野望を深く反省します。そして、彼は、[自国の中で自分の権勢を伸張しようとする野望も、世界の中で自国の権勢を伸張しようとする野望も、しょせんは欲望に支配されたものにすぎず、人間は、宇宙の中で人類の権勢を伸張しようとする野望こそを持つべきである]と考えるに至りました。

 とはいえ、人間は自然に比べてあまりに無力です。そこで、彼は、むしろ「自然は服従によって征服される」と考えました。つまり、[自然の性質を正しく理解すれば、その性質を手綱として自然を制御できる]ということです。このことを彼は「知は力なり」というテーゼで表現しました。しかし、アリストテレス論理学だけによる思弁的なスコラ哲学は、空理空論であって、およそ力にはなりえません。彼はかねてから学問の「大革新」を計画していましたが、これまでのアリストテレス論理学オルガノン)の方法に代わる知識獲得の方法を模索し、『ノーヴム=オルガヌム』を執筆します。

 ここにおいて、彼は、[思弁的な論理学ではなく経験的な観察と実験こそが力となる知を獲得する方法である]と主張します。しかし、彼によれば、観察実験の以前に、人間は四つの〈虚妄(イドラ)〉によって心を曇らされています。すなわち、情感による〈種族の虚妄〉、偏見による〈洞窟の虚妄〉、伝聞による〈市場の虚妄〉、権威による〈劇場の虚妄〉です。したがって、まずこのような虚妄を排除し、雲りのない心となることが必要です。

 〈種族の虚妄〉とは、人間や民族が持つ生理的・文化的な情感によるものです。〈洞窟の虚妄〉とは、プラトンの洞窟の比喩のような個人が持つ偏見によるものです。〈市場の虚妄〉とは、マスコミのウワサのような間接の伝聞によるものです。〈劇場の虚妄〉とは、舞台の上のおおげさな手品のような権威によるものです。

 そして、論理学的な思弁ではなく観察や実験という経験から知識を獲得する方法にしても、物事から偶然に共通性を発見する帰納法ではあてになりません。なぜなら、偶然に発見された共通性は、偶然の共通性にすぎないかもしれないからです。そこで、彼は、ある物事のさまざまな性質について、その性質を持つ事例の〈現存表〉、その性質を持たない事例の〈不在表〉、その性質を増減する事例の〈程度表〉の三つを整理し、この三つの表の比較によって偶然的性質を除いていくことによって、その物事の本質的性質だけが残るようにするという否定的帰納法を採ります。そして、[このように観察や実験の帰納法を地道に重ねていってこそ、やがては自然を支配できる力となる知が得られる]と彼は考えたのです。

 彼の時代、ヨーロッパ大陸ではガリレオ1564~1642)やケプラー(1571~1630)が地動説を主張して活躍した時代であり、中世の常識が近世の科学によって克服されていった時代でした。この時代にあって、彼は、[アリストテレス論理学による思弁主義]に対して[観察と実験からの否定的帰納法による経験主義]を主張することによって、中世の神学と近世の科学の方法の違いを明確に示したのであり、まさにこの研究の方法の違いによって、近世の科学が特徴づけられるのです。そして、彼は、この科学の方法の明確化によって、その後の多くの科学者たちに大きな影響を与えることになります。

 彼はまた、『ニューアトランティス』という著作において、科学技術によって繁栄するユートピア(理想社会)を描きます。そこには、飛行機潜水艦などのさまざまな科学的発明が予言され、国家の行政から個人の結婚までが中央科学研究所によって誤謬も失敗もなく科学的に決定される、とされています。そして、このような科学主義社会は、今日でこそ環境破壊や人権抑圧と元凶とされるものの、つい最近までは実際に世界中で人類の理想とされてきたのです。

 彼は、科学の方法を実践すべく、みずからもさまざまな実験を行います。そして、二六年、雪中の肉の冷凍保存実験でカゼをひき、彼は死んでしまいます。その後の近代科学の発展には、このベイコンの観察と実験からの否定的帰納法による経験主義とともに、ルネサンスで復興されたピュタゴラス=新プラトン主義的な数学的世界観を必要としていましたが、ベイコンイギリスという辺境にあって、後者をまったく欠いていました。このために、彼自身は科学の研究者ではなく、科学の予言者にとどまらざるをえませんでした。それでも、彼は、その立身主義的な生き方においても、その科学主義的な考え方においても、近代人の先駆的象徴であったと言うことができるでしょう。

中世から近代へ:文明論の視座から