筆者は葬祭業に携わりながら、6年ほど前から、「葬儀葬式ch」というYouTubeチャンネルを運営している現役のYouTuberでもあります。そんな活動をしていると、視聴者さんから質問を頂くことがあります。あるとき、お母さんが子どもの素朴な疑問を代筆し、このような質問として送ってきてくれたことがありました。

「どうして、死んじゃった人の顔に白い布をかけるの?」

 これに対する当時の筆者の回答は「死者の顔が腐敗して変色し、見た目が怖いものになっていくから、その顔を隠すため」と「死亡確認が曖昧だった頃、顔に薄い布をかけておけば、万が一、息をしていたときに布が動いて分かるから」というものでした。

 数年前にした回答ですが、さすがに毎日のように動画で質問に答えていると、答える側も少しずつ、新しい見解が進んできます。そこで今回は、現状での「なぜ、遺体の顔に白い布をかけるのか」という考察を話してみたいと思います。

遺体の持つ根源的な怖さ「腐敗」

 まず一つは、先述した以前の回答と同様に「ドライアイスがなく、十分に冷却できなかった時代、遺体の顔色は見る見る変わっていくから」というものです。白装束というのは宗教的な心理面だけで語られることが多いですが、実は物理的な変色による「遺体の怖さ」を隠すものとして存在している側面があるのです。

「天冠(てんかん)」と呼ばれる、頭に着けるひも付きの三角の布があります。幽霊のコントでよく使われているのを見ますが、もともとはもっと大型で深く、おでこ全体を隠すように使われていました。顔の全てを隠すわけではないですが、髪の毛の生え際など大きく露出している部分を隠すには非常に有効で、腐敗の様子を隠し、故人の尊厳を守るために着けられました。

 他に手甲(てっこう。てこう、とも)、足袋、脚半(きゃはん)などもありますが、変色は人間の体の末端部分から起こることが多く、変色が大きくみられる場所を隠すためにあるのでしょう。そう理解すると、白装束は合理的に「死の恐怖」「腐敗による変色の恐怖」に対応した、生きている人が死者を送るための合理的な装具だということが分かります。よって、遺体に白布をかけるのは、腐敗して変色していく様を直接見せないためという意味合いがあるのは間違いない事実でしょう。

 現代ではドライアイスの流通状況がよくなり、また、エンバーミング(遺体の消毒や保存処理をすること)などの遺体保全技術が利用しやすい状況によって、遺体の腐敗による変化を実感しにくくなったので、白布をかける行為を疑問に思うこともありますが、昔の、遺体の腐敗が当たり前だった時代には、白装束も遺体の顔にかける布も当然の処置であり、必要なものだったのでしょう。

「納棺した後は白布をかけない」ワケ

 白い布に対する考察の重要なポイントとして、「布団に安置しているときは白い布をかけて、顔を隠し、ひつぎに納めた後は布を取って、顔が見える状況にする」という使い分けがあります。

 医療が行き渡らず、医師による死亡診断が不十分だった頃には、顔に薄布を当てて、呼吸しているかどうかを見定めたというのは一見、合理的な説に思えていました。しかし、医師の診断が安定して行われるようになった昭和の時代も、白い布を顔にかける風習は存続し続けました。その答えの材料は同じく、昭和の頃に行われた「遺体の耳や鼻に綿球を詰める」行為にヒントがあるのではないかと筆者は推測します。

 体液の流出を抑えるためには、浅い所に詰める綿球はあまり意味を成しません。遺体処置のやり方が科学的に理解されていなかった頃には、遺体から、体液や血液があふれることがよくありました。そういうことに対する風習的な言葉も残されており、「仏さまが喜んでいると、血が出ることもあるんだよ」と教えてもらったこともあります。しかし、「昔の人が意味のないことを伝統として続けるだろうか」という疑問が浮かびました。

 その際、過去の自宅安置の風景を思い出したときに、答えとして有力なのは「虫」の存在です。現代の、温度管理の行き届いた気密性の高い自宅空間での安置ではなく、そこそこに隙間があり、空調がなく、部屋の温度管理が難しい時代においては、遺体の口が開いていて、大小のハエが遺体にたかっている光景は、1976(昭和51)年生まれの筆者より上の世代では記憶にあることでしょう。

 鼻や耳に浅く詰められた綿球は虫の侵入を防ぎ、卵を生み付けられるのを防ぐ物でしたし、白布もそうした虫の侵入を防ぐバリアーとして有効に働くといえます。顔にかける白布は現実的な効果として、「腐敗による変色の怖さを遠ざけ、物理的にハエなどの虫の侵入を防ぐものとして機能していた」というのが筆者の現在の見解です。そして、納棺後は虫の侵入の恐れがないため、納棺時には白布を取り去っているというのが理論的な推測になります。

顔に白布をかけたがらない人も

 部屋の気密性が上がり、虫の侵入も容易に防げて、ドライアイスなどの冷却措置で顔色もあまり変化しなくなった現代では、「(故人の)お顔を見ていたいので、白い布をかけなくてもいいですか」と、死者をまだ生きているかのように扱う遺族も現れるようになりました。

 先述した通り、死者の怖さとは根源的にその腐敗していく様子にあるもので、腐敗がある程度は抑えられる現代においては、白布の必要性が感じられなくなってきているのかもしれません。筆者としては「寝顔をずっと見られると恥ずかしいかもしれませんし、まぶしいと、よく眠れないかもしれませんから、ほどほどでご家族の気が済むようにしてくださいね」とアドバイスすることにしています。

 理解できない風習を「迷信」と片付けてしまうのは簡単なことですが、風習には極めて合理的な側面や敬意が存在しており、人の営みと文化の豊かさを表すものです。昔通りのことをできるだけ残すのは、やはり、連綿と続いてきた死者への敬意を失わないこと、そして、時代背景に思いをはせ、風習の意味をもう一度知ることにつながるのではないでしょうか。

佐藤葬祭社長 佐藤信顕

なぜ、遺体の顔に白い布?