(小谷太郎:大学教員・サイエンスライター)

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 2021年8月24日(日本時間)、学習院大学の白石直人助教と国立情報学研究所の松本啓史准教授らの研究グループは、「熱平衡化の問題は、一般的な形では解決不可能な問題であることを証明」したと発表しました*1

 ・・・と聞いても、全く意味が分からない、というのが普通の人類の反応ではないでしょうか。

「熱平衡化」とは何でしょう。「解決不可能な問題であることを証明」とは、結局何かを解決したのでしょうか、それともしてないのでしょうか。解決できないのがどうしてそんなに誇れる成果なのでしょう。

 この発表は、理論物理学の先端にして斬新な成果です。熱平衡化しない系という、研究者が頭を悩ます不可思議な問題に、チューリングマシンなる計算機械を持ち込んで、基礎から工事し直しちゃったというような結果なのです。

 この、かなり高度で難解な理論物理学の成果を、私の咀嚼力のおよぶかぎり噛み砕いて解説しましょう。歯が立たないところがあったら御免なさい。

熱平衡化とは何だっけ

 熱いお湯の中に冷たい氷を放り込むと、熱が伝わって氷は溶け、しばらく経つと全体が等温のぬるま湯になります。熱いお茶もアイスコーヒーも美味しいけれど、ぬるま湯はあまり人気がないのはなぜなんでしょうね。

 このぬるま湯のように、全体が等温で、もう熱の移動が止まった最終的な状態を「熱平衡」状態といいます。系が熱平衡状態に変化することが「熱平衡化」です。こういう話題における「系」は「物体の集まり」とでも思ってください。

 熱平衡化は重要な研究テーマです。お湯と氷でぬるま湯ができるのは当たり前ですが、なぜそうなるかを説明しようとすると、とたんに難しくなります。なぜ熱平衡化が起きるのかを真剣に考える学問分野が、「熱力学」や「統計力学」です。

 人類は熱力学を200年、統計力学を100年ほど研究して、コップの中の氷や蒸気機関や部屋に散らばるレゴブロックといった無数の系の熱平衡について調べてきました。

 そして熱平衡化については相当詳しくなったかというと、今になって、またひとつ人類の知らなかったことが見つかった、というのが今回の結果です。

 それによると実は、系に熱平衡化が起きるかどうか、予想するためのうまい方法はない、というのです。人類の膨大な無知のリストに新たな一行が追加です。

まるで溶けない氷のような

 熱平衡化という現象は、コップの中の氷や蒸気機関や部屋に散らばるレゴブロックなど、この世のいたるところに見られます。中でも研究者のお気に入りのおもちゃは「スピン」です。

 スピンとは、電子や原子といったミクロな粒子の「自転のようなもの」です。

 どうして「自転です」とはっきり言わず、「自転のようなもの」となんだか自信なげな表現をするかというと、電子や原子のスピンは私たちの知るマクロな物体の自転とはかなり性質が違うからです。

 スピンの不思議の話は始めると尽きないのですが、それは今回の主題ではないので、ここのところはさっと切り上げましょう。とにかく研究者はスピンを持つ物体をいくつも(頭の中や計算機の中に)並べて、温めたり冷やしたり磁場をかけたり互いに力を及ぼさせたりして遊び、その性質を調べます。

 そして最近分かってきたことですが、そういうスピン系の中には、初めの状態をうまくセットしてやると、いつまで経っても熱平衡状態にならないものがあるのです。

 これはお湯の中の氷でたとえると、最初に氷を特殊な配置で入れると、いつまで経ってもぬるま湯にならず、氷が溶けたりまた凍ったりを繰り返すことに相当します。これまで誰も見たことのない奇妙な現象です。

 熱は高温から低温に伝わるものであり、自然界は温度の一様な状態へと変化するというのが、熱力学200年、統計力学100年の常識でした。それがこの発見によってくつがえったのです。

 そういう、いつまで経っても熱平衡にならない状態は「傷跡状態」などと呼ばれます。これについては以前の記事*2でも解説しましたので、どうぞあわせてお読みください。

熱平衡化するかどうか知りたいんだけど

 傷跡状態となるような系は次々報告されました。探してみるといくらでもあるようなのです。

 そういう、熱平衡化しないようなおかしな系は、自然界の中にも見つかるのでしょうか。これまで気づかなかったけれども、実は結構ありふれた現象なのでしょうか。ある系が熱平衡化するかどうかは、予測することができるでしょうか。

 傷跡状態については研究課題が山積みですが、今回分かったのは、系が熱平衡化するかどうか知るための、一般的に使える計算式やコンピュータープログラムなどは存在しない、ということなのです。

 その証明には、チューリングマシンという計算機械を用います。といっても、チューリングマシンを実際に作って動かして問題を解かせる必要はありません。チューリングマシンが動くところを想像するだけでいいのです。

話変わってチューリングマシンとは

 チューリングマシンとは、数学者アラン・チューリング(1912-1954)が考案した、計算を行なうことのできる機械、つまり一種のコンピューターです。考案したといっても、実際に製作したわけではなくて、その原理を発表しただけです。

 チューリングマシンは、データを記録する長い長いテープと、それを巻き戻したり進めたりしながらデータを読み書きする単純な機構からなります。非常に単純なので、ちょっとした計算でも、実際にやらせたら長時間かかるでしょう。

 しかしこの愚直なマシンは、時間はかかるものの、現代のコンピューターにできる計算は全てやってのけます。四則演算から高度な数式処理、素数の勘定から将棋に囲碁まで、あらゆるタスクが原理的に処理可能です。

 このことは、チューリングマシンにできない処理はコンピューターにもできないことを意味します。

 例えば、チューリングマシンには、コンピュータープログラムの誤りを見つける「デバッグ」ができません。このことは、人間の方のチューリングが1936年に証明しました。

 ということは、コンピュータープログラムを書いたりデバッグしたりという作業は、コンピューターに任せることが原理的にできないということです。現代社会では多数の労働者がプログラム書きに携わっていますが、これがAIに置き換わって全員クビになる事態は、新しい原理のコンピューターでも発明されない限り、やって来ないことになります。

 このように、チューリングマシンの性質を調べると、コンピューターの限界が分かりますチューリングマシンは実用性はありませんが、コンピューターについて研究するのに役立つ実に強力な道具なのです。

 チューリングマシンを(頭の中で)発明したアラン・チューリングは、コンピューターサイエンスの父祖(の一人)とされます。まだ現代的なコンピューターが1台も存在しない時代に、コンピューターというものが実現したら何ができて何が不可能なのかを考察した知性には畏れ入ります。

 天才チューリングと悲劇的な死については過去記事*3を御覧ください。

チューリングマシンが熱平衡化問題に挑む(そして敗退する)

 チューリングマシンは、アラン・チューリングによって発明された1936年から今にいたるまで、△△は計算できないだとか□□は決定不能だとか無理だとか、不可能な課題ばかり与えられています。チューリングマシンにできないことのリストは年々長くなるばかりです。何だか気の毒な機械です。

 そして今回の発表もまた、チューリングマシンにはできない無理難題のひとつです。

 ある系が熱平衡化するかどうか、それともいつまで経っても熱平衡化しないのかという問題を、チューリングマシンに解かせることはできない、というのです。

 今回の研究のミソは、問題を解くチューリングマシンの材料に、長いテープを用いるのではなく、一列に並んだスピンの長い連なりを用いるところです。(実際に製作するのではなく、頭の中でそういうスピン列を組み立てます。) マシンによってテープのデータが書き換わる代わりに、スピンは自然に時間変化していきます。つまり、熱平衡状態に近づいていきます。そうなるようにスピンに働く力をうまく設定してやって、チューリングマシンを作ります。

 それができたら、そのスピン列でできたチューリングマシンに、「あるスピン列は熱平衡化するか」という問題を解かせます。

 しかも、チューリングマシンに解答不可能な問題をあたえるときの常套手段ですが、「スピン列は熱平衡化する」という答えが出るときにはマシンが熱平衡化しないように、「スピン列は熱平衡化しない」という答えならマシンが熱平衡化するように、いじわるく設定します。

 そして最後の仕上げに、そのスピン列でできたチューリングマシンに、自分自身のスピン列を問題として与えます。

 するとそのチューリングマシンは、自分が熱平衡化するという答えが出るならば熱平衡化しません。熱平衡化しないならば、熱平衡化するはずです。熱平衡化するならば・・・という具合に、ジレンマに陥るでしょう。これは矛盾です。

 つまり、「あるスピン列は熱平衡化するか」という問題は、このチューリングマシンに解くことができない問題です。チューリングマシンというものは、テープと機械でできていても、現代的な電子回路でできていても、スピン列でできていても、計算結果は同じです。

 つまり、どんなチューリングマシンにも、どんなコンピューターにも、このスピン列が熱平衡化するかどうか決定不能です。

 するとつまり、スピン列の熱平衡化問題を一般的に解く計算手法やプログラムやアルゴリズムは存在しないという結論が得られます。

(少なくともひとつの)熱平衡化問題は、計算不能であり、決定不能だという事が分かりました。たぶん決定不能な熱平衡化問題はひとつだけでなく、他にもたくさんあるでしょう。

紅茶が冷めると問題が解ける

 以上は大胆に単純化し、分かりやすさのために正確さを犠牲にした説明です。

 もっと正確な説明がほしいかたは、ぜひ原論文*1にあたってみてください。

 ちなみに白石助教の研究をこのコラムで紹介するのは、これが初めてではありません。2016年10月には、「一般の熱エンジンの効率とスピードに関する原理的限界の発見」という、これまた難解な成果を、慶應大学の齊藤圭司准教授と学習院大学の田崎晴明教授と共同で発表し、拙稿*4で解説いたしました。白石助教は、当時は東京大学大学院生でした。

 それにしても、熱力学統計力学は、分子や原子1個1個の状態が分からないという事を前提にした物理学です。そういうものを知ることを諦めて、原理的に分からないものなのだとみなすと、逆にいろいろな性質が分かるのです。人類に分からないことが増えると統計力学熱力学は進歩するのです。

 今回は、またひとつ、人類に知り得ないことがらが増えました。つまりこれは、熱力学統計力学の大きな成果ですね。

*1:Shiraishi, N., Matsumoto, K. Undecidability in quantum thermalization. Nat Commun 12, 5084 (2021).
*2:小谷太郎「スカーッと分かる! 量子の世界の『傷跡』とは」
*3:小谷太郎「許されなかった同性愛、悲劇の天才チューリング」
*4:小谷太郎「物理学業界が大興奮した『熱機関の限界』発見」

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  ネコにサイにゴキブリに! 生命への愛に満ちたイグノーベル賞

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