『ゲーム&ウオッチ』発案のきっかけは「電卓で遊ぶサラリーマンを見かけたこと」

ピサロナイト
 その後も、横井さんは『ラブテスター』『光線銃シリーズ』など、独創的なアイデアによる商品を次々と開発していきます。

 そして1980年、横井さん自身はもちろん、任天堂にとっても、ひいては日本のゲームの歴史においても、大きな運命の転換点が訪れます。

 国内で1287万台、世界で4340万台を売り上げた『ゲーム&ウオッチ』の発売です。ゲーム&ウオッチのアイデアは、横井さんが新幹線で、電卓で遊ぶサラリーマンを見かけたことがきっかけでした。電卓で遊ぶというのは、初めは意味がよくわからなかったのですが、当時は『電卓で遊ぶ本』というものが出版されていて、「12345679×9」という計算をすると、液晶に1の数字がずらりと並ぶ、といったものだったそうです。

 ただし、横井さん自身は『ゲーム&ウオッチ』のアイデアについて、それほどすごいアイデアだとは認識していなかったようです。

 そのアイデアが実現するに至ったのは、横井さんが昔から車好きで、中古の左ハンドルの外車を運転していたことに起因していました。ある日、山内社長の運転手が体調不良で休んでしまいました。しかし、会合があったため、どうしても出かけなくてはなりません。社長の車は左ハンドル。そこで、横井さんが一日だけ、運転手を任されることになりました。

 当時、横井さんは開発課課長であり、プライドがあったため、あくまでも自分の本分である開発課に関わる仕事の話をしようと思い、小さな電卓風のゲーム機のアイデアを社長に語りました。しかし、社長はさほど興味を持っている様子でもなかったそうです。

偶然が重なって商品化が実現

 ところが、その後の会合で、たまたま隣の席にシャープの社長が座っており、山内社長は、今しがた聞いたばかりの横井さんのアイデアを話しました。折しも当時シャープは、電卓をめぐって小型軽量化や低価格の実現といった、熾烈な開発競争を、カシオと繰り広げていました。

 そして一週間後、シャープの幹部らが任天堂を訪れ、事の顛末を知らない横井さんは訳が分からないでいると、山内社長は「君が言っていた電卓サイズのゲーム機なら、シャープが得意だから呼んだんだ」と言ったそうです。そして、アイデアは実現化へ向けて動き出します。

 「元々大したアイデアだとは思っていなかった。運転手が休んだ。社長の車が左ハンドルだった。私にもプライドがあった。偶然シャープの社長が隣にいた。どれひとつ欠けていても、ゲーム&ウオッチのアイデアはどこかで消えていただろう」と、横井さんは述懐しています。

 当時、任天堂は、70~80億の負債を抱えていたそうですが、ゲーム&ウオッチの成功により、40億円の預金を作ることができました。そして後に、山内社長は、その預金をファミリーコンピュータ』の開発に丸ごと投資することを決断したのです。

「私は決して天才なんかじゃありません」

 初めは「安穏と定年まで勤めらえればいい」と考え、自分を落ちこぼれだと思っていた青年は、やがて自らの仕事にプライドを持つようになり、そのプライドをきっかけのひとつとしてゲーム&ウオッチが作られ、それは会社を救っただけでなく、ファミコンの誕生にも繋がっていくことになりました。

 「私は決して天才なんかじゃありません。私はどこにでもいる普通の人。発明好きのただのおじさんだって、人様から認められる仕事を成し遂げられる。だから人生は面白い」と、横井さんは言いました。

 いかがでしたでしょうか。

 自分は落ちこぼれだと思っていた青年が、会社を救い、そして今の任天堂の在り方を形成した。様々な偶然が重なって生まれた『ゲーム&ウオッチ』の伝説や、横井軍平さんの生き様について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひ下記動画をご覧になってください。


横井軍平さん】任天堂入社~ゲーム&ウオッチまで-ゲームゆっくり解説【第41回前編-ゲーム夜話


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